また恋愛したいと思うのは非情?
こんにちは。
ご無沙汰しております。
ご相談があって、メールしました。
先月、彼の3回忌でした。
あっという間の2年間でした。
この2年間、大きな成長もなく、ただただ日々を過ごしていたなと感じる一方、
よく生きたなとも思います。
また彼の存在が特別ではなく、
日々のできごとを報告する相談相手のような、
わたしの日常に溶け込んでいる存在に変化していって、
なんだか切なくもあります。
日にち薬なのか、過去の出来事になりつつあるのか、、
恋愛したい気持ちも出てきたのですが、
これは非情なんでしょうか?
いま誰か特定の方に想いを寄せているわけではないのですが、
恋愛したいな、いつか結婚したいな、
自分より大切だと思える存在をみつけたいな、と思うようになりました。
この気持ちを持つことはいけないことなんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自然-自分がこうあるべきと思い計らう以前のもの
おはようございます。ご相談拝読しました。
どんな気持ちも「いけないもの」などではありません。というのも浮かんでくる気持ちを私たちは選べるでしょうか?そうではないでしょう。
どんな気持ちでも、それがたとえ自分にとって不都合であったり不謹慎と感じるものであったとしても、その気持ちはその時に湧いてきた自然なものです。自然現象に「これは良いとかこれは悪い」と評価・判断をくだしても救われません。
その時の自然な自分として受け止め、受け入れていくことが大切なように思います。
「自分より大切だと思える存在をみつけたい」
という気持ちは素敵なものであると思います。そうはいっても相手がいることですからやはり思う通りになるものでもありません。自然な気持ちにブレーキをしたり、自分をあるべき正解のような姿に縛るのではなく、素直に日暮らしを送る中でまたご縁に恵まれることを念じます。
人間は複雑な生き物です。ですから亡くなった彼との時間、彼への気持ちを大切にすることと、新たなご縁を求めるということが矛盾すること無くあなたの中に同居できるのではないかと思います。
そのように思うのは自然なことです。
そのような気持ちが出てくることは
非情でも何でもなく
ごく自然なことです。
どうおその気持ちを
否定することなく
大切になさってください。
亡くなった彼にも
胸を張って報告できるような
素敵な出逢いがありますように。
非情じゃないですよ。
仏の世界にはヤキモチも恋愛もないです。といいたいところですが、それじゃ人情も素っ気もないですね。。
非情かどうかを案じる前に彼にヤキモチ妬いてほしい気持ちはまだありますでしょうか。そこが自分目線での判断の基準でしょうか。
相手目線に立つと、、、
彼と比較されることはこれから出会う相手には非情です。恋愛そのものが非情というわけではないです。
彼は彼です。恋愛は恋愛。
彼にまだ恋してるなら話は別ですが、ここまで成長させてくれた私にとって大切な存在が彼のポジションです。
これから出会う気になる相手が俺と彼とどっちが好きとかいう人レベルなら、違う相手をすすめますね。
彼の命日に一緒に手を合わせられる相手と巡りあえることを願います。
勝手言ってすいません。
質問者からのお礼
すぐにご回答いただきまして、ありがとうございます。
そうですね。彼の命日に一緒に手を合わせたり、一緒にお墓参りができるような関係が理想ですね。
そうなるためにも、彼は彼、新たなご縁はご縁として、自分のなかで整理していきたいなと思います。
たしかに「気持ちに正解はない」ですね。
良い、悪いで判断しがちな自分がいましたね。
それがいったい何の判断基準なのか・・・言われてみたら、不思議です。
これからは、新しい出会いも大切にしていきたいと思います。
ありがとうございました。