人々に絶望することが多くなりました
初投稿です。よろしくお願いします。
質問といいますか、愚痴に近い内容になりますが、少々お付き合い下さい。
最近、人々に絶望することが多くなりました。世間に対し、あなた方は過去から、歴史から何を学んだんだ、同じことを繰り返してばかりじゃないか、はやる気持ちを一旦落ち着かせて思慮の深いよりよい選択をなぜ取らないんだ、と訴えたくなることがよくあります。
例えば、ネットでの誹謗中傷です。誹謗中傷の内容は感情的・感覚的に発言するものが多く、思慮に欠けますし、そもそも自分の不平不満を述べるのであれば、わざわざ人を傷つけるような言葉を使う必要はないでしょう。人を傷つけてストレスを発散しているのでしょうが、私にはそのような方法でストレス解消することに理解できません。
もちろん、誹謗中傷を行う人はごく少数の者であり、その他大勢の人間は誹謗中傷などしない、とも考えられます。しかし、誹謗中傷を行う者に目を向けると、その多くはどこにでもいるようなごく普通の一般人で、必ずしも社会になじめない人格破綻者が行うとは限らないと思いますし、そのようなことが書かれた記事も目にしたことがあります。
思えば、周囲の人間を見渡すと、親切な方(だと私が思う人)でも、ネットで暴言を吐かないにしても、それは社会的に見て正しい言動なのかと疑問に感じることがあります。例えば、偏見を生む発言を繰り返す人、多角的な視点は皆無で、自己やその周囲の人間のことしか考えていない人、目先の快楽のことばかり情熱を燃やす人などなど。そのくせ犯罪者など、反社会的行動を行った者に対しては烈火のごとく怒り狂い、執拗なまでに石を投げ続けますが、しかし、刑罰法規に触れないものの、結構悪質なことをたくさんやっている方があなた方の中でもずいぶん多いじゃないか、過去に人にはあまり言えない悪行をした人も多いのではないか、と思うことがままあります。
私は、国のため、国民のためになるよう、長い時間をかけて勉学に努めて参りましたが、最近、世間に対してそのように考えることが多くなり、勉強に身が入りません。25mプールに墨汁を一滴垂らすがごとく、私の行いで世間はそれほど変わらないでしょうし、私自身の無力さに失望しているためです。考えを改める必要があると思いますが、お坊様から見て、何かお言葉を頂けないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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大河の一滴でも意味のあること
こんにちは。
「愚痴に近い内容」とのことなので、お話を聞くだけでもいいのかも知れません。ただ、末尾に「考えを改める必要があると思いますが、お坊様から見て、何かお言葉を頂けないでしょうか」と言っているので、私の感想を少し書こうと思います。
私は、あなたの考えに概ね同意します。
「ネットでの誹謗中傷」についてですが、確かに「わざわざ人を傷つけるような言葉を使う」ケースがしばしば見受けられます。一対一で面と向かって決していえないような言葉を、匿名という隠れ蓑を得た途端に激しく吐く人もいるようです。
20年ほど前に問題になった「スマイリーキクチ中傷被害事件」では、お笑いタレントのスマイリーキクチさんが謂れのない濡れ衣を着せられて、ネット上で激しい誹謗中傷にさらされました。後で分かったその中傷した犯人たちは、会社員や主婦等でした。
この事件から、あなたが言っていることはよく分かるつもりです。
ただ、そのような人たちに対して、あなた「自身の無力さに失望している」という問題を抱えているようです。つまり、そのような人達に対する是正の力を持ちたいけれども、もち得なくて「失望している」のでしょう。
あなたも分かっているでしょうが、人を変えるのは容易ではありません。
また、自分が正しくて、相手は間違っているという指摘の仕方も人を変えることは難しいです。相手にも心がありますから。
では、出来ることは何でしょうか。
それは、自分の意見を大切にしつつも、自分の意見は一意見に過ぎないという相対化をすることです。
そして、もう一つは直接語るのではなく、背中で語ることの重要さを知ることです。随分昔に読んだ本で、どなたの言葉だったかは忘れましたが、こんな趣旨の言葉がありました。
私は、教えようという人に教わったことがない。
教えられたと言う人に、教わったことはある。
自らのあり方に謙虚でありつつ、日常の所作、言動の中にあなたの思いを反映していく。その一所懸命の毎日に、教わったと思う人は必ず出てくるはずです。その積み重ねは、大河の一滴でも意味のあることだと思います。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
反論とは受け取って頂きたくはないのですが、「背中で語る」という方法に少し疑問符がつきます。私の「背中で語る」行為によって「教わったと思う人」が出てくるのは、私の所作・言動を中長期的かつ継続的に観察可能な方、具体的には、私の身内か、かなり限定された範囲の周囲の人間くらいに限られるのではないかと思います(社交的な方なら範囲はより広いでしょうが)。それは、今、他人にあまり期待しておらず、他人との接触をできるだけ断とうとしている(そうでないとかなり疲れます)私にとってはほとんど意味なしと感じられます。
詰まるところ、「大河の一滴でも意味のある」ことなのか、そうでないのかの話に行き着きますが、お坊様のお言葉を頂いておきながら大変恐縮ですが、お坊様のお言葉を伺ってもなお、「大河の一滴」にあまり意味を感じられないのが正直な感想です。
私が生まれる遙か何千年前から「一滴」ずつ垂らしてきた人がたくさんいるでしょうが、大河は濁ったままな気がします。「それが人間」と言ってしまえばそれまでですが。