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夫の共感力の無さに絶望

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体外受精2回目で妊娠判定が出ましたが、その後流産となってしまいました。

元々共感力のない夫で、度々もっと私の気持ちに寄り添って欲しいと話していました。

しかし、流産した日に「お疲れ様」としか言われず、「残念だったねとか辛かったねとか言ってくれないの?」と聞いたら、「だって良くあることだってネットに書いてあったから」と言われ、私の悲しみには寄り添ってくれないのかと絶望しました。

子供は欲しいのでまだ体外受精は続けたいのですが、夫がこの状態ではいつまで私の精神が持つか危ういところです。

今回の事で夫に変わってもらうのは難しいと実感したのですが、今後の夫婦生活すらどうして良いのか分かりません。

私はどのような気持ちで夫に接したら良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

男は女性目線ではないですが一緒に前を向いているものです

女性にはわからんでしょうが男性には男性なりにちゃんと考えているものです。
今のワイドショー、番組ではダメ夫をコケ下すような男女の仲を裂く、悪くするような番組が多いこと快く思っていない日本男児の一人です。
今日も私も妻から共感をされていないなぁと誤解をされるシーンがありましたが、私は私なりにそのことに関しては考えていた問題でした。子供を授かるということは素晴らしいことではありますが、我が家では子供が発達障害で毎日が時として地獄です。会話にならならい、年長になってもおむつを外さない、同じものしか食べない、あれをするな、これをするな、洗濯場に行くな、数字の〇がテレビに出るだけで発狂もの、地獄ですわよ。
それでも親が死んだらその子はもっと大変。だから、夫婦でその子を守っていかなければなりませんし、他の子も問題ないように面倒を見なければなりません。
だからって、私が毎日が地獄だ地獄だと言ったらあなたはどう思うでしょうか。救いようがありませんよね。人生は地獄の中でも心に六道地蔵をまつってどんな地獄も修羅界も救いに導く精神があなたにあるかどうか。あなたも苦しいでしょうが、あなただけが被害者ではないはずです。被害者でもないはずです。かわいそうにならない心理が大事です。旦那さんだってつらいはずでしょう。人間誰もが自分ファースト目線であるとつらいときにはつい自分が今苦しいのは相手のせいだと思ってしまうものなのですよ。
そういう単純な心理から自分を見つめてまず、ご主人に対して冷たいなぁと思ってしまったあの瞬間、自分がつらかったからと言ってついネガティブなジャッジをしてしまった瞬間に巻き戻ってみましょう。
ご主人だって、言葉が見つからなかったのではないでしょうか?
あなたが嫌ならとっくに別居なりをしているはずでしょう。
相手は鏡です。
あなたの鏡もあなたが思ったようになるのです。
鏡は主体性はありません。
ならばまずは何を映し出すにしても鏡にテロップは持ち込まないことからです。
鏡が百台あってもテロップが出てくる鏡なんぞはどこの世界にもありません。あるのは人間の心の中だけ。
あの時のご主人を悪く言った、悪いテロップを入力した背景にはご自身もお辛かったからなのではないでしょうか。ご主人もつらかったでしょう。
共感とはいっしょにするものではないでしょうか?
今から良い夫婦になられますように💗

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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