hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

人の価値、値打ちとは何か

回答数回答 3
有り難し有り難し 40

よく、人の値打ちや価値が「ある」とか「無い」と言う人がいます。
人の価値、値打ちって何でしょう。
価値、値打ちの無い人はいるのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「値打ちの無い人」はない

こんにちは。

恐らく周囲の伝聞でしょう、「よく、人の値打ちや価値が「ある」とか「無い」と言う人」がいる、と書いています。具体的にどのような文脈での発言なのかはわかりません。ただ、ここでは一般的問いとして回答しましょう。

辞書的意味では、「その物や事柄がもっている価値。役に立つ程度・度合いや、その物の品位」、或いは「品物の値段」ということのようです。

私は、「値打ち」がどのようなスタンスで発せられる言葉かによると思います。

まるで、「品物の値段」を計るように、「人の値打ち」を値踏みする。上から下へ見下すかのようなスタンスで「人」を判断する。これは、「人」を「人」として見ているのではなく、「品物」として見るが如くです。平等の命、対等の立場、これを不当に侵害するような見方、物言いとしての「人の値打ち」という表現は不遜です。この平等、対等という観点で「値打ちの無い人」はないと思います。

一方、その人の技術や人徳、特徴を言い表す「人の値打ち」という表現は否定すべきはない、と考えます。例えば、職人さんの高度な技術、鍛え抜かれた集中力を褒め称えて、それを「値打ち」と表現するのは違和感がありません。

或いは「人の値打ち」は外見ではなく中身だといった場合は、外見的な虚飾にとらわれることを戒め、人の本質はその人の心や人生観などその人の人徳、特徴にこそある、という言い方になります。これも「値打ち」が肯定的な文脈での表現になっています。

この二つの用例は、いずれも上下ではなく、左右対等の立場からの見方です。
命を平等、対等に見ていく時に発せられる表現としての「人の値打ち」です。この場合は、「人の値打ち」が肯定的表現になり、その意味で「値打ちの無い人」はないのだと思います。

つまり、いずれの場合にも「値打ちの無い人」はないという結論です。

非常に短い質問のため、あなたの問題意識、現状に即した回答になったかどうかは定かではありませんが、回答を受けてあなたはどう考えましたか。聞かせてもらたら嬉しいです。

{{count}}
有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
このお坊さんを応援する

価値など

tomoさま

価値、意味、理由などは、仏教では「縁起」としてあり得ているものの、実体としては成り立っていないという「空」であると申します。ですから、無いという絶無・虚無ではないが、それ自体として実体的に有るものではないということになります。

のみならず、一切は縁起し空であると考えます。

縁起しているとは、簡単には因縁(原因と条件)次第にて有り得ているということになります。

また、その価値、意味、理由などはそれぞれの人にても異なるものとなります。

このことは以前の拙回答ともかぶりますが、例えば、もともと私たちは、一つのモノ・コトを捉えていても、誰もが同じようにそのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えているとは限らないのであります。

一つの物事でも、立場に応じて見方、捉え方が変わってしまう例えとして、仏教では「一水四見」という言葉がございます。

私たち人間にとっては「水」であっても、天人にとっては宝石、魚にとっては住処、餓鬼にとっては火と、それぞれで捉え方が異なってしまっているという例えです。

更に、仏教における唯識思想から考えれば、この世界の顕れの捉え方の複雑さについて、より知れることになります。

一つのモノを見ても、実は、それぞれ、はるか昔の過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているという複雑な構造を知ることができます。

要は、誰一人として、誰かと同じように、そのモノ・コト(の意味や価値や理由も含めて)を捉えていることはもともとあり得ないということでもあります。

阿頼耶識のありようが、当然に皆それぞれ指紋の如くに異なっているからであります。また関心があれば、是非、唯識について学ばれて下さい。

ですから、そう捉えている人それぞれでそれぞれにおける意味や価値、理由であり、また、それも色々な因縁次第において変わりゆく無常なるものとなります。

ですから、全く無いわけではないし、変えていけないわけでもありません。善き因縁に努めれば、もちろん、善き意味や価値、理由も見出し得るということにもなります。

仏教は、そのような善き因縁へと資する教えでもあります。

是非、より関心を持って仏教を学んで頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

価値、値打ちのない人はいません。

tomoさん、こんにちは。

人の価値、値打ちの有無について考えているのですね。
仏教では、生きるモノすべて、価値を等しく平等に持っていると考えるので、価値のない人、値打ちのない人なんていません。その自分の価値、値打ちを気付く人が少ないので、自分の価値、値打ちをわかりように修行するのです。

ただし、仏さまではない私たちは、自他の価値の受け止め方は、それぞれの人の個人のフィルターによっても変わってきてしまいます。だからこそ自分の価値は他人の評価を乗り越えて、自分で作り上げていく必要があります。そうすると自然に他人からも価値を評価してもらえるようになるのです。

まずは自分の与えられた事をしっかりすることです。
お互いがんばりましょう!(^人^)合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

★僧伽(お友達)になりましょう。一緒に仏教を楽しみましょう★ Email...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

川口 英俊様、染川智勇様、釋 悠水様、問答ありがとうございました。
そして、お忙しい中私の質問に回答してくださったにも関わらずお礼が遅くなり申し訳ありません。

何度も何度も読み返しました。
そしていろいろと考える時間を持ちました。
人それぞれ値打ちの考え方がありますが、『値打ちの無い人はいない』と言う言葉に安心しました。
私の短い質問に丁寧な回答をして頂き有難く思います。

本当にありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ