hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

パートで働いています。

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

パートで働いています。部署がいろいろあり、今までは事務、窓口業務、異動して今は、お店のレジをしています。窓口は忙しく大変でしたが、やりがいがありました。レジは、精神的に楽ですが、同じお客様を対応しても、窓口のときと態度が違い横柄な態度をとられます。窓口のときは、そんなことなかったのですが。やはり下にみられてる気がします。子育てと家事のことを考えるとレジの方がいいと思うのですが、仕事に行くと、やはり事務の方がよかったかなぁと後悔しています。仕事に対して誇りが持てないというか。毎日鬱々としながら働いています。やる気もでません。心の持ちようを教えていただければと思います。よろしくお願い致します。
top escorts


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

6感フィルター越しのアウトプットうりゃー。

こんにちは90歳のおばぁちゃん。
年齢詐称か登録ミスではなかろうかとは思いますが、人間の活動に年齢は関係ないので年齢はスルーします。
仕事とか接客とかパート、職、アート、作務、業務と言おうが何と言おうが自分のやっていることの活動は禅宗風に申し上げれば「ただわが為すことを為すのみ」なのです。
助けとか救済とかサービスとか業務とか仕事と言いましてもナ、手を差し伸べてあるアクションをするだけのことじゃろが。👴(じいさん化)
じゃから、仕事というとらえ方そのものが実はすでにズレておるというわけじゃな。
接客だろうが、レジだろうが、手を動かす、声を発する、やるべきことをやるだけでしょう。
そういう視点を持ってみることです。
今から料理を作る、食べる、片付ける、ただわが身の無色透明の活動としてとらえてみることからです。
私もこうしてPCで回答を入力をしておりますが、目の前には来ることが来たり、耳にはジョージ・リンチ、リッチー・コッツェンのギターが流れています。
人間は存在しているだけで6感を通してインプット。
仕事をするというのはその6感を通して、アウトプットすることです。
行には行があるばかりです。
そこに私見や主観やスキキライを交えずして行われている時があるものなのです。
そりゃぁ、時には嫌われたり、嫌なことがあったり、トラブル、アクシデントなどがあるでしょうが、それでも時は流れる、やらなきゃいかんことは来たるものです。
禅では主人公とか言いまして、本当に自分自身がこの身心の主人公となることを説いております。ですが、ここでいうところの主人公とはエゴエゴした自分やスキキライの多いエゴエゴしたアタシという主人公ではありません。
聞きたくなくても見たくなくてもそのものが来ればそのことが行われる。
そこには主観やスキキライ以前の大真実が行われている。
スキキライ以前の大真実とは、自分の突っ込みを入れる前ということ。
職場であの人が嫌いだ、あの仕事は嫌だといっても、目玉は今日今ここで見ているものは人生で今日新たに始めてみるものでしょう。耳にする音も何度も聞くレジの音、電話の音でもいつでも人生初めての体感なのです。人生初めての体感であることをきちんと見抜き、過去の脳内データを交えずにことを為すということを主軸にやってみるとよいでしょう。自己の今のアクションは常に「初」なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ