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ネガティブな妄想を止めるには

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有り難し有り難し 10

こんにちは。

よく妄想にふけり、その起こってもない出来事に対して不安になったり、悲しくなったり、怒りの感情が湧いてしまいます。
特に多いのは、母親が亡くなる妄想、家に凶器を持った男が侵入してくる妄想、侮辱的な言葉を吐かれる妄想です。
妄想に気づいた後も、「また妄想で時間を無駄にして心を消耗してしまった」などと自己嫌悪して、悪循環に陥っています。

どうしたら止められるでしょうか?
ご回答お待ちしております。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を傷つける行為は意味がないとだと見抜けるとやらなくなる

たまたま幼稚園で体験したある出来事です。
自分を傷つける行為=凹む、悩む、ふてくされる、不機嫌、過剰な心配・不安は自分を損ねるだけでなく周りにも害があるものだから「( °👄°)絶対やらない方がいいよ?」という救いようのないお話です。
ある女の子がクラスの中でふてくされて泣いていたのです。誰も相手にしてくれません。どうやらその子はいつもそれをする常習犯らしく。彼女なりのSOS信号らしいのですが、先生も3度も声をかけに来ても手を払うように、てふてくされ泣きを継続するのです。うげ。
お弁当の間もほとんどそうしていました。
みんなも声掛けには来ていたのですが、スルー。
そこまで言ったら、おいおい、あんたのその態度もちょっと問題だよ、というレベル。
おウチであればそれをすることでママが救いの手を差し伸べてくれていたのかもしれませんが、それは世間では通用しない。ですが、それでもまだ、やり続けている。かわいそうというより、なんとマァ自分もみんなも損ねてしまう態度だろう、もったいない、と思いました。
わかってもらいたい、助けてほしいにしても、やり方がアウト。うまくその時の状況を説明しきれませんが、たとえ本人が面白くない、嫌だったとしてもみんなから受け入れられるようにしなければいくら助けを求めて誰も構っちゃくれない、スルー、今後無視されたら触らぬあの子にたたりなしな状況が幼稚園から起こってしまう。地獄絵図。
他人様の子だったのであまりあれこれ言うと角が立つかと思ってなにもいえませんでしたが、何を言いたいのかと言えば、そんなことはいくらやっても意味がないんだ!ということはあると知っていただきたいのです。「無駄なことなど何もない」というスカした御仁もおられましょうが、あるんです、無駄なことって。

妄想やネガティブ思考というものも自分をただ苦しめるだけの悩みや暗い考えであれば、その心の行為自体がま・る・で「無意味」であると見抜くことをお勧めします。
上手に用いることができれば欲も怒りも悩みもネガティブ思考も自分を向上させるための機縁とすることもできます。大事なのはそれをより良く転化させ善導する菩提心の精神。もうこんな苦しいことはしない・させない・繰り返さないぞ!という自分を成長、向上させる善導の精神を持つことです。
私はあの子にその時そう教えてあげられなかったことを申し訳なく思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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