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家にいたくありません

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家族とあまりうまくいっておらず、家にいるのが苦痛です。

何を考えているのか全くわからない姉、堅物で融通の効かない父、神経質な母に囲まれ、とりあえずは幸せなのですが、コロナ禍の影響で家族と接している時間が増え、衝突することも増えました。

なるべく家ではない場所で過ごしたいのですが、前述のコロナ禍のため、あまり長時間外出すると叱られ、余計にギスギスしてしまいます。

それでも家にいるのは窮屈で、苦しくて、つらいです。
そして、それでしかストレス発散できない自分にも嫌気がさします。

どうしたら効率よく気分転換できますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

妖怪自我ニャンの憑依を払う

人間には「我(が)」というメンドクチャイ心の作用があります。
「我が強いとか」「我を捨てろ」という言葉を耳にしたことはありませんか?
では、その「我」の在り処をご存じでしょうか。
アタマにあるのか、心にあるのか、どこかの場所にあるのか?という質問ではありません。
あなたにそれを意識させ、その「我」の弊害を知り、我からのソーシャルディスタンスを保つための㊙でお得なすんげー大事なお話しです。
たとえば、あなたが急いでいる時「自分の都合」が立ちます。
買い物に行く際に、ものすごくレジが混んでたりすることがありますね。
なんでもない時は問題ありませんが、自分が何かしたい先立つ気持ちがある時にはそれを阻害されるとイライラしたり不機嫌になることがあるでしょう?この不機嫌やイライラ、不都合にさせる原因は何か。
それは妖怪自我ニャンという人間の「我・エゴ」の仕業なのです。
自分の都合とはあくまで個人の都合なので他人さまには関係ありません。
お姉ちゃんがイミフな不機嫌なのもお姉ちゃんの都合。
堅物おとーちゃんが不機嫌なのもお父ちゃんの都合。
神経質かーちゃんが不機嫌なのもおかーちゃんの都合。
それを問題にして火がつくのは、それはあなたの都合。
あー、家にいたくない、あー、もーむり、気が狂う、あーしにてー、こんな世界滅びてしまえー👿と思うのもあなたの都合なのです。(そこまで言ってないぞ)
「我」という憑依霊・内的アプリは身心に存在するものではなく作用として起こるものです。達人はこの我を抑える力を持つ。だから禅僧は坐禅をして我を滅する。我には色・形・姿があるわけでもない。ここではあえて人にとりつく憑依霊のようなものとして説明していますが、スマホのアプリのように起動するときだけが起動する。立ち上がりがなければ無我。人間が自分を守ろうとするわが身可愛がりの心、防衛エネルギーの心の暴走が自我。ですが、この我というものは当の本人がその我というものの危険性に気づかない限り改められることはありません。
なぜなら我が我を容認しているからなのです。
人類のあらゆる犯罪も戦争も自己中な活動もみな人間の我、エゴというものが真犯人です。
よって、あなたはこの我というショーモナ憑依霊の妖怪、あるいはアプリのようなメンドクチャイ「心の作用」を自在に抑える力を得ようと念ずることでもかなり環境は改善されるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!
妖怪自我ニャンという例えに笑っちゃいましたw
一度冷静に自分自身と向き合って、我とソーシャルディスタンスを取りたいですね。

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