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小田原の事件について

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有り難し有り難し 22

小田急線の事件にひどく心を乱されています

どうして誰でもよかった(=自分より弱い相手なら誰でもよかった)と逆恨みした相手ではなく、全くの無関係の人を傷つける発想に至るのでしょうか?

また自分に落ち度はないのだろうかと思わないのでしょうか?

電車に乗っているだけであのような人に巻き込まれるのではないかと怖いです

またお釈迦様はそのような人も救うのですか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

傷つく人も 傷つける人も いなくなる活動にご協力を

お釈迦様が救うのではありません。
お釈迦様が示してくださった、人類・人間のあるべき心であのような痛ましいことが起こらない世の中になるようにみんなで人の心を救いに導く、良い方向へ向かわせるのです。
人の世や人の心をより良く導く、善導の精神・善導の作用で「全体を救う」ということが大切なのです。
あなたはあなたの中のお釈迦様や聖人君子、偉人の精神で自分も救う。傷ついた人も救う。みんなの悲しみも苦しみも痛みも救いに導こう!と思う、念じる、志す。
それであなたの中で初めていわゆるお釈迦様の救いの心が自発的に生まれるようになる。
すでに起こってしまった哀しい事件、痛ましい事件。
犯人に気持ちを向ければ怒りがわく。
被害者に気持ちを向ければかわいそうで、不憫でなりません。
襲われた人は今後もトラウマでしょう。
ニュースを見た人は恐怖を覚える
世の中を「破壊してやろう」と思った人があのような人間を生み出す。
だからこそ、こんな人間が出てくるようなこんなおかしな
世の中を「もっと良いところにしたい」とあなたが思えるかどうか、思うかどうか、思ったけど他人任せ、坊さん任せ、お釈迦さま任せにしようとしてはいけないのでは?
私は他人任せ逃げの心理と思いました。だから、私は傍観とダンマリが無意味と悟り、できることをやるのです。
アンパンマンは君さー♪という歌があるでしょう。
毎回アンパンマン任せで自分は助けてもらうだけの側にいようとしていると、食パンマンやカレーパンマンやメロンパンナちゃんのようなアンパンマンサイドの善意を助ける立場にもならないまま、どうしてアンパンマンは助けてくれなかったの!といういわゆる外部から不満や愚痴をモノ言うだけの炎上人間になる。
炎上するならその炎を生かす。
世のなかであんなひどいことをする人たちを無くしたい!正したい!治したい!力になりたいという意識の炎に転ずるのです。
その愛がない、足りない、少ない。慈悲心があまりにもないから、私ども坊主だけではとても足りんのです。
世の中に心の善玉菌を活性化するジャムおじさんの工房のような活動があっても、バイキンマン=エゴイストが増えれば足りない。バイキンマンがやらかしたときに言うべきことは、アンパンマンはどうしたの?ではなく、みんなでアンパンマンやお助けマン、善導マン、善玉菌マン、プリキュアメンバーになることです。ご協力を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

怒りの気分

怒りの気分で興奮している場合、怒りをぶつける相手は誰でも良いのだと思います。
理屈に合いませんが、人間はそういう生き物ではないでしょうか。
私は、そのようなイライラの気分を理解できます。
たまたま犯罪者になっていない私はラッキーなだけで。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

【捕捉】

タイトルですが
小田原→小田急線
の間違いです。すみません

ご意見ありがとうございます

他人任せの逃げの心理ですか…。
『幸せそうな女性を殺したい』と、ミソジニーを一方的にぶつけられる可能性の恐ろしさのある環境を、被害者になりえるサイドの人間が動かなくてはいけないのは納得できませんでしたが…。

煩悩スッキリコラムまとめ