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死と、死に方の理由

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有り難し有り難し 27

死とは何ですか?人は、何のために死ななければならないのでしょうか。

生きることに目的や使命があるのはわかります。例えば、魂の修行のため、使命を果たすため、人生を謳歌するため、願望実現のため、など、いくらでも思い付くのですが、
死ぬことにも同じように、目的があるのでしょうか。

先日母を亡くしました。母自身、最後の瞬間でさえも諦めず、頑張ってくれましたが、力尽きてしまいました。
死は誰にでも平等に訪れるものですが、母はまだ50代と若く、母にはまだまだ叶えたい夢がたくさんありました。私も母と共に叶えたい夢や目標がありました。
「まだこの世にたくさん未練がある」と、亡くなる前言っておりました。まだ若い母には、生きる目的や理由が残されておりました。

それなのにどうして、この世を去らなければならなくなってしまったのでしょうか?
また、母の場合は癌で苦しみ死に至りましたが、例えば事故死や殺人の場合も、なぜそのような形で死ななければならなかったのかも大変疑問に思います。
どうして、老衰のような、安らかな死に至ることができないのでしょうか…。

2021年8月11日 11:47

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

亡くなったお母様にしてあげられること

過去の質問も含めて読ませていただきました。

大切なお母様を亡くされた悲しみで落ち込んでおられるのですね。
また祖父母様との関係も、お母様への未練の一因となっているのでしょうか。
心中お察しいたします。

さて、死についてお尋ねされておられるので、それについて回答させていただきます。
生きること、死ぬこと、それ自体に何の意味もありません。過去世の業に依って来世の命を受ける。その業に導かれた結果が人間だった、それだけの話なのです。
また、過去世の業(原因)と、現世での出来事(縁)が合わさる(因縁和合)ことで、様々な現象として身の回りに表れてくるのです。その結果として、様々な死に様というのが人それぞれ異なって現出する、それだけの話です。

しかし生きる目的や理由なしには、人は希望を持って生きられませんよね。ですから、自分が生まれた意味を、それぞれの人がそれぞれに後付けするのです。
死ぬことについても、「ただ亡くなった」では遺族はなかなか納得できませんよね。ですから遺された人が、亡くなった意味をそれぞれ後付けするのです。それは生きた意味と言い換えることができるかもしれません。

はすさんは、お母様を亡くされた悲しみと共に、ご自身が何も出来なかったという無力感に苛まれているのかもしれません。
しかし、亡くなってからも出来ることがあります。
1つ目は、先ほど申し上げた「生きた意味」を与えてあげることです。たとえば、はすさんがいつまでも落ち込んで立ち直れず、そのまま不幸な人生を生きるなら、お母様は「はすさんを不幸にする人生」を歩んでしまったことになります。
しかししっかりと立ち直り、お母様への思いを胸に自分の人生を前向きに生きて幸せになれれば、お母様は「はすさんを幸せにする人生」を歩まれたことになります。
これは立派な親孝行と言えるでしょう。
自分なりの、「お母様が生きた意味」を与えてあげてください。それがきっとはすさんの心をも救ってくれるでしょう。

2つ目は、お母様をしっかり供養してあげることです。供養してあげることで、結果的にお母様は苦しみのない世界に命を受けることができます。
信頼できる僧侶にお願いして、お母様の供養をしてあげてください。
これも、立派な親孝行と言えるでしょう。

何か少しでも参考にして、前向きに進んでくださいね。お母様もきっとそれを望んでおられますよ。

2021年8月11日 13:17
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有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
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拝読させて頂きました。
大切なお母様がお亡くなりになられてあなたは深く悲しまれてさみしさもつのる毎日を送っておられることでしょう。あなたのお気持ちを心よりお察しします。
そしてお母様が心安らかになります様にと切にお祈り申し上げます。至心合掌 南無阿弥陀仏私達人間というか生きものには与えられた生命や身体があり、様々なものごとや人々に恵まれて育まれ、或いは自ら新しい生命を恵み愛し育み、そして様々な出会いや巡り合わせの中で生かされていきます。そして様々な因果関係やつながりやタイミングによりその与えられた天寿を全うしていきます。それは誰が決めるのではなく様々な条件やつながりの中で訪れるものです。
生きもの達は与えられた奇跡的な命にかけて新しい生命につないでいく為にそのあらん限りの力を注ぎ次の生命を生み育みます。そのあまたの営み一つ一つがかけがえのない尊いものです。ある新しい生命は別の生命つまり私達の様な人間に食べられてしまいますでしょうし、ある新しい生命は厳しい地球環境の中で即死に絶えてしまうかもしれません。それでもそれぞれの生命はそれ一つ一つ価値があり生きる意味や希望や目的を託されているのです。その一つ一つ詳細については私達には全てはわからないことでしょうが、素晴らしいことです。今お昼でランチですけれどこの瞬間にもあなたにも私にも様々な恵みが与えられているのですからね。
それはお母様も同じです。お母様も様々な恵みの中であなたや皆様とのご縁の中で与えられた人生をしっかりと皆様と一緒に幸せに生き抜いていかれたのです、一生懸命に精進なさり豊かな人生を生き抜いて天寿を全うなさっていかれたのです。それはかけがえのないとても尊い生命であり人生です。そしてその延長線上にあなたや皆様がいるのです。お母様とあなたや皆様とのご縁はこれからもずっと続いていくのです。あなたや皆様をこれからもずっと見守っていて下さるのです。死は決して終わりではありません、つながるバトンの一つの形なのです。命やつながりは永遠なのです。
どうかこれからも毎日お母様を思い手を合わせてお母様にあなたの思いをしっかりとお伝えなさって下さいね。お母様はきっとあなたの声にいつも耳を傾けていて下さいます。あなたの思いを受け止めて下さりあなたを励ましなぐさめて下さいます。
お母様はいつもあなたと共にあるのですからね。

2021年8月11日 12:31
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

ご回答頂き、ありがとうございました。母を思い出すと、想いが込み上げてきて、胸が苦しくなり、涙が溢れてきます。私が生きている限り、それは変わらないような気がします。ただそれでも、一日一日踏ん張り、しっかり生きて、死後に母と会いたいです。
お答え頂き、本当にありがとうございました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ