死を学ぶ授業
「いのちの停車場」(南杏子・著、幻冬舎)という本を、お盆の期間中に読みました。
・「癌悪液質」
・「疼痛緩和医療」
・「疾患別死亡曲線」
・「譫妄(せんもう)」
・「下顎呼吸」
この本に出てくる言葉ですが、私の母(2008年死去)の場合は、ほぼ当てはまっていました。諸般の事情で、在宅介護が出来なくなり、最期は病院の緩和ケア病棟で看取ったのですが・・・。
当時は、「緩和ケア」等の考え方が、まだ緒についたばかりで、私も周囲も知識がありませんでした。少しでも知っていれば、こちらの受け止め方も、多少は違っていたと思います。
回答僧の皆様の回答でも、「死」に関するものが、多いですね。心(精神面)だけならば、hasunohaの回答で十分だと思いますが、医療面での知識も必要だと、改めて感じます。
答えのない質問をぶつけて申し訳ないのですが、回答僧の皆様は、主に在宅介護する家族に、「死を学ぶ授業」が、必要だと思いますか?
このhasunohaを、小学館集英社プロダクション発行の本で、知りました。(登録は2019年) かつては、列車で、各地(北海道を除く)を巡りました。 よろしくお願いいたします。
「安楽死所望」の一方で、心のどこかに「死」に対する恐怖心がある。 加齢とともに、親の二の舞を演じる場面が増え、無力感が募る。 受容できない自分を受容できない。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死を見ることは必要であり、学ぶことはあまり...
拝読させていただきました。
世の中には数多くの分野別に著者されておりますが、仏教での分野はあくまでも仏教なのであると私は思っております。
それは何故なのか?
それは「心理学」では無いからなのです。
仏教は「真理学」なのです。
仏教の根底には輪廻転生があり、さとりに向かうことは死をも超越するからなのです。
生者必滅、会者定離であるからこそ、多少の心理と死を見つめることは必要です。
死を見る修行法もあるほどです。しかし、その先に何を仏教者は見るのかと申しますと、諸々は無常であるということであり、無我を説きます。
四苦八苦の中には愛別離苦はご存知と思いますが、自然の摂理であります。しかしこのように捉えてしまうと仏教での何よりも大切にする慈悲はどこにあるのかとなります。
・釈迦は
「若い人も、壮年の人もーー
愚者も、賢者も、すべてが死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。」
と、述べています。衆生の道理であり、真理を観照した言葉です。
また、「過去は追うな、未来を願うな、今を生きよ」
と、釈迦は説くのです。
だからこそ、未来を見ずに「今」を生きることに専念するということになります。
死を準備せずとも寿命(定命)が誰にしも存在するので、今を全うする生き方に一意専心せよという賢答となります。
日本での仏教は大乗仏教であり、出家者・在家限らずに皆で苦しみのない彼岸に渡ろうという意味でもあります。
いわゆる利他行が先行することであり、他を救わずとして自己だけさとるなという自利は駄目なのであり、命ある限り救済に努めることが日本での僧侶の在り方でもあります。救世することが慈悲ともなり、死を学ぶ・医療を学ぶ、ということは専門分野である医学者へ任せるという運びとなります。
また、グリーフケア・臨床心理といった分野は仏教では昨今取り入れていることもあります。いつなんどき私たちに死が訪れるやも知れません。そのために仏教を学んでおくことで、心理状態にも不安は相当減少いたします。
また、他僧侶さまからの答えにも参考にしていただけましたらと思います。
合掌
質問者からのお礼
法源様
回答を頂き、ありがとうございました。
ご指摘の通り、医療面のことは、医療関係者に任せるしかないですね。過去の問答(他の問答)も、参考にさせて頂きます。
ご縁があれば、またよろしくお願いいたします。