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死を学ぶ授業

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有り難し有り難し 12

「いのちの停車場」(南杏子・著、幻冬舎)という本を、お盆の期間中に読みました。
・「癌悪液質」
・「疼痛緩和医療」
・「疾患別死亡曲線」
・「譫妄(せんもう)」
・「下顎呼吸」
この本に出てくる言葉ですが、私の母(2008年死去)の場合は、ほぼ当てはまっていました。諸般の事情で、在宅介護が出来なくなり、最期は病院の緩和ケア病棟で看取ったのですが・・・。
当時は、「緩和ケア」等の考え方が、まだ緒についたばかりで、私も周囲も知識がありませんでした。少しでも知っていれば、こちらの受け止め方も、多少は違っていたと思います。
回答僧の皆様の回答でも、「死」に関するものが、多いですね。心(精神面)だけならば、hasunohaの回答で十分だと思いますが、医療面での知識も必要だと、改めて感じます。
答えのない質問をぶつけて申し訳ないのですが、回答僧の皆様は、主に在宅介護する家族に、「死を学ぶ授業」が、必要だと思いますか?

2021年8月28日 12:44

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死を見ることは必要であり、学ぶことはあまり...

拝読させていただきました。

世の中には数多くの分野別に著者されておりますが、仏教での分野はあくまでも仏教なのであると私は思っております。

それは何故なのか?

それは「心理学」では無いからなのです。
仏教は「真理学」なのです。

仏教の根底には輪廻転生があり、さとりに向かうことは死をも超越するからなのです。
生者必滅、会者定離であるからこそ、多少の心理と死を見つめることは必要です。
死を見る修行法もあるほどです。しかし、その先に何を仏教者は見るのかと申しますと、諸々は無常であるということであり、無我を説きます。
四苦八苦の中には愛別離苦はご存知と思いますが、自然の摂理であります。しかしこのように捉えてしまうと仏教での何よりも大切にする慈悲はどこにあるのかとなります。
・釈迦は
「若い人も、壮年の人もーー
 愚者も、賢者も、すべてが死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。」
と、述べています。衆生の道理であり、真理を観照した言葉です。

また、「過去は追うな、未来を願うな、今を生きよ」
と、釈迦は説くのです。
だからこそ、未来を見ずに「今」を生きることに専念するということになります。
死を準備せずとも寿命(定命)が誰にしも存在するので、今を全うする生き方に一意専心せよという賢答となります。

日本での仏教は大乗仏教であり、出家者・在家限らずに皆で苦しみのない彼岸に渡ろうという意味でもあります。
いわゆる利他行が先行することであり、他を救わずとして自己だけさとるなという自利は駄目なのであり、命ある限り救済に努めることが日本での僧侶の在り方でもあります。救世することが慈悲ともなり、死を学ぶ・医療を学ぶ、ということは専門分野である医学者へ任せるという運びとなります。
また、グリーフケア・臨床心理といった分野は仏教では昨今取り入れていることもあります。いつなんどき私たちに死が訪れるやも知れません。そのために仏教を学んでおくことで、心理状態にも不安は相当減少いたします。
また、他僧侶さまからの答えにも参考にしていただけましたらと思います。

合掌

2021年8月28日 21:53
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有り難し
おきもち

祈るこころに佛心が宿る。 変化多き時代を生きる私たちにできること、それは...
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質問者からのお礼

法源様
回答を頂き、ありがとうございました。
ご指摘の通り、医療面のことは、医療関係者に任せるしかないですね。過去の問答(他の問答)も、参考にさせて頂きます。
ご縁があれば、またよろしくお願いいたします。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
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病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 11
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ