最悪に備えるって?
私は、仕事に限らず、プライベートなことでも、想定出来る範囲のことはすべて考えて対策・準備するようにしています。
想定外の出来事に対面すると動揺して冷静な判断は難しくなるでしょうから、少しでも多くのことを想定しておけば、準備万端であり、心に余裕を持って物事に対処出来ます。
それでも、想定外の出来事は起きるでしょうが、そのことだけに集中して対応することが出来ます。
しかし、スピリチュアル系の知人に言わせると、「最悪の場合を考えるとそれが実現してしまうから、絶対にマイナス系は考えない」と言います。
最終的なことは、人智が及ばない神仏のみが知る部分があるとは思いますが、小さな日常的なことまで、すべて、「その場その場の状況次第」というのはどうなのでしょうか?
最悪を想像して落ち込むのではなく、対策を練るために想像することは良くないのでしょうか?
1つの出来事で、本番1回だけの経験から学ぶよりも、事前練習で10パターンの対応を考えることの方が、より多くの学びが出来ると思うのは違うのでしょうか?
限られた命の中で、より多くのことを学び・経験したいと思うからこそ、自分の出来事だけでなく、世間を騒がせる事件などでも、「もし私が当事者だったら、どうするのか?」などを考えるのは、仏教的に良くないことなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
死に備える
人生は様々な事が起こります。そんな人生をお釈迦様は、「生老病死」の四苦とお示し下さいました。
下は私流の私的な味わいです。
老苦は、時は流れ続け、変化からは逃れられない事。
病苦は、思いもよらないトラブルが起こることは避けられない事。
死苦は、生まれたものは必ず死を迎える事。
生苦は、上の様な人生に生まれなければならなかった事。
ここでいう「苦」とは、苦しみではなく、思い通りに成らないことです。たとえ、仕事が思い通りに進んだとしても、仕事を始める時点では、思い通りになるかどうか、自分で決められるものではありません。そして、人間は、自分の思いと、直面する現実の間で苦悩するのです。
人生ではただひとつ、思い通りではないかもしれないけど、100%間違えないことがあります。それは、必ず死を迎えるということです。そして、死苦から他の苦が発生します。体は変化しますが、その先に死があるから、「老い」と表現します。死ななければ(死を想定しなければ)、体の変化は「成長」です。たとえ、病になっても、死ぬ可能性がある病かどうかで、大きく意味が変わります。皆さん、お仕事をされているでしょうが、「なぜ、お仕事をするのですか?」と聞けば、決まって、「食べてゆくためです。」と答えられます。食べるためというのは、イコール、死なないためです。
この、死というものをどう捉えるかで、人生が安心か、不安化が決まります。阿弥陀如来は、私達の死を、光り輝く仏となる、尊い死に変えてくださいました。だから、一瞬一瞬、死に近づく人生を、私達は安心して、将来を楽しみに生きてゆくことが出来ます。
死を安心に変えてしまえば、他の事は、生きている間、人生を楽しむ材料です。苦しむ人がいたら、助けてあげるもの楽しみだし、すっぴんさんの様に、色々な事を想定して、学び、経験することも、人生の楽しみです。人間関係が上手くいかないこと、病になること、老いることも、楽しみです。
親が子を見守るように、仏様が私達を見守り、安心の人生に変えてくださった。その人生を楽しむって素晴らしいことですよね。
どうぞ、ご自分が大切だと思うことを、堂々となさって下さい。
あしたテポドンが飛んでくるそうですよ?
と、いったらどうしますか?間に合いますか?
最悪の事態に備えたければ、すればいいだけのこと。
確かに備えあれば憂いなし、です。
ただし、起こりもしない内から「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」というのは杞憂(きゆう)、取り越し苦労、心配し過ぎちゅうもの。
死ぬときゃ死ぬんです。どんなに高尚なスピリチュアルなんちゃらでも火山だ津波だ竜巻だ、では死ぬときゃ死ぬるほかない。
起こりもせんことを、想像、推測、憶測、邪推して何の益かある。
そん時が来たら対応すればいいのですよ。
考えの上で生きているからそういう不安や要らぬ妄想で苦しむのです。
禅、仏道は、いま、ここ、目の前の真実を生きるのです。
それ以外は全部情報に過ぎんでとしょう。
いま、ここ、といっても、今、此処、の中で考え事しとったら目前のリアルタイムの今、ここ、を見失う。
考え、不安、憶測という思いの覆い・カバーを取り除いてはじめて真実がDIS(外す)・COVER(覆い)=発見されるのです。
あなたはすっぴんなのでしょう。
この世界の、すっぴんという事は、一切作り事、塗りたくり、はからい、きれいごと、脚色をなくした姿である。憶測、邪推をもって世の中を観ているということは、すっぴんではない。
しっかり現実、事実のすっぴんを生きていれば「もし私が当事者だったら」…なんて、要らぬはからいすら出~てこんけん。
さて、あしたテポドンが飛んでくる、としたらどうします。
こう言ったとたんに、すぐ、すっぴんの事実(涅槃寂静)の上に、余分な思いの下地、憶測のパウダー、いらぬはからいが出て脚色されるでしょう。
そん時が来るまで、すっぴんの事実(あれこれ思いを入れ加えない事実)を生きるべきです。
タイプは色々。蓼食う虫も好き好き。
すっぴんさん。あなたが備えあれば憂いなしの性格を悪く言われたという点は同情します。ワシも結構そうです。石橋を叩いて渡る性格で何事も準備万端で取り組めないと不安で仕方ありません。
学生のころはこの性格で他の人から臨機応変、適当に出来ないのかよといつも揶揄されておりました。
でも、最近になってそれが生かされております。準備万端も出来れば臨機応変も出来ると自分で自負しております。それは過去のあらゆる失敗がワシを成功に導いているかもしれません。
道元禅師様が『正法眼蔵』で「今の一当は百不当の昔なり。・・・」という言葉がありますが、ワシの好きな言葉がありますが、まさに、諦めずに続けたものに与えられた結果を道元禅師様は語っておられました。
タイプは人それぞれ、その場その場で上手くふるまえる人も才能の一つですし、あなたのように準備を怠らない人も才能です。その二つが互いに協調し合えば1+1=2以上のものが出来ると思いますので、違うものに対して嫌悪感だけは抱かないようにお願いします。必ず新たな発見が待ってますよ。
杞憂
すっぴん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
この世における全ての現象・事象は、縁起して成り立っているものと仏教では考えます。
縁起とは、簡単には、因果の関係性のこと(更に依存関係についての難しい考え方もございます)で、この因果の流れをしっかりと理解することで、色々なモノ・コトにもある程度、対処し、対応し、対策を講じることも可能ではないかと存じておりますし、必要なことではないかと考えております。
特に、防災や減災、防犯などは、普段から気を付けておくに越したことはありません。ただ、その中でもどうしょうもないことはどうしょうもないことであると理解しておくことも大切となります。
その見極めをしつつに、できるだけ杞憂することでのマイナスに囚われずに日々を平穏無事に過ごして参りたいものでございます。
また、以下の拙回答もご参照下さいませ。
問い「自然災害が怖いです」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002996507.html
『・・良寛禅師は、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ」と述べられておられます。災難にあっても、しっかりとそれはそれとして現実を受けとめて、冷静にその時にできることをできる限りに対処していくことが肝要となります。いまだ起こってもいないことにあれこれと思い悩んでも詮無きこと、杞憂なることでしかありません。とにかく目の前の現実の一つ一つと真摯に向き合って、なすべきことをなしていかないといけないという次第でございます。・・』
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
長谷川さま、回答ありがとうございます。
「生老病死」いずれのことも、貴重な経験だと思いますし、自分では「人生を楽しんでいる」つもりです。
ただ、自分一人で経験できることは限りがあるから、本や映画、世間の出来事などを疑似体験することでより多くの経験を積みたいと思っています。
高齢者の母が「足がむくむ」と訴えた場合に、何も予備知識が無ければ、慌てて病院に行くという選択肢だけになるでしょうが、いろんな知識があれば、心臓か、腎臓か、いつからなのか、どのくらいなのか、どんな状況なのか、などを冷静に観察し判断できると思うからです。
「たった一つの出来事から、どれだけ多くのことを学べるのか」たぶん、そこに私は人生の楽しみを見出しているのかもしれません。
良い気づきを頂きました。ありがとうございます。
大鐵さま、回答ありがとうございます。
そうですね。「タイプは人それぞれ、その場その場で上手くふるまえる人も才能の一つですし、あなたのように準備を怠らない人も才能です。」とのお言葉、納得です。
ただ、どうしてもお互いのことが理解できないために、ふと気づくと、「何故?どうして?絶対にこっちが良いのに!」という意見のぶつかり合いになってしまい平行線になってしまいます。
「1+1=2以上」になれるように心がけたいと思います。ありがとうございました。
丹下さま、回答ありがとうございます。
「杞憂」・「今此処」などについては、いろいろな法話・説法・書籍の中で何度も見聞きしており、愚かなことだと思っています。
「想定外の事が起きたらどうしよう?」という不安・取り越し苦労を無くすために、「準備万端、出来るだけのことはしたのだから、あとは天に任せよう」と安心して物事に対処できると思っています。
「今此処」の出来事に集中できるように、「テポドンが来るなんて想像もしていなかった!どうしよう・・・」と右往左往するのではなく、「テポドンが来るかもしれないって思っていた。」と冷静に対処出来るようにしたいと思っています。
予備知識があればこそ、デマや憶測、思い込み、感情、感覚に流されることなく、「今、目の前に起きている出来事」を冷静に判断できるのではないかなぁって思っています。
憶測・邪推で目の前の出来事を見る目が曇ることの無いように気をつけたいと思います。ありがとうございました。