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地獄について

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久しぶりに地獄についてなのですが、
さっき何気なく地獄について調べたら、阿鼻地獄(無間地獄)のことで気になりました
なんかよく読んだら、「五逆罪 謗法罪」というのがあり、特に五逆罪は父母、そしてお坊さんや悟りを開いた方などを殺してしまうと無間地獄行きとかいていたと思います。でも無間地獄=人殺しがおちる と思ってたのですが殺しの中にも殺生があって、それについて調べたら、命あるものをころしてはいけない。とあり、殺人者は五逆の罪に入ってなければ無間地獄行きではないのかな?と思いました。
僕の思ってたのは間違ってたのでしょうか?でもずっと前に地獄の絵本みたいなのがあったのですが「ひとをころすも2000年も真っ逆さま」とあって、これは阿鼻地獄(無間地獄)と関係してますよね。
五逆罪と殺生の違いがイマイチ把握できてませんでした。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

こんにちは。

 まずはご質問について調べてみますと、
 地獄は八大地獄といって8種類に分類されていて、それぞれ16の小部屋に分かれているそうです。8×16=128の地獄があるとされています。
 全ての地獄の入獄条件に「むやみな殺生」があるので、殺生の種類や度合いなどによって行く地獄が違い、その中でも五逆罪は無間地獄ということなのでしょう。

 さて、突然ですが、なぜあなたは学校の宿題をしますか?「宿題をしないと学校の先生に怒られてしまう」ってちょっと頭をよぎりますよね。もしかしたら頭をよぎるどころか、先生に怒られないために宿題をしているかもしれませんね。
 でもよくよく考えれば、宿題をしないと、学校の授業についていけなかったり、将来社会に出たときに知識がないと困ることになりますよね。今回のコロナ騒ぎも、国語・算数・理科・社会の知識がないと、おかしなデマに惑わされたり、正しく感染対策できなかったり、予防接種を受けたくても受けることができなかったりする可能性があります。宿題は先生に怒られないためではなく、将来の人生が、気持ちよく過ごすことができるためにするものといえましょう。

 地獄もそうです。地獄は悪いことをした人を落とす場所ではなく、「あのような所に行きたくない」と思って、悪いことをしないように気をつけさせるためにあるのです。悪いことをしなければ、周囲から信頼され、気持ちいい人生を歩むことができるでしょう。それが地獄の存在意義です。

 お釈迦様の弟子に「アングリマーラ」という方がいますが、この方はお釈迦様の弟子になる前は、大量殺人をしてきました。しかしそれを反省しお釈迦様の弟子となり、弟子となった以後は殺人はしませんでした。アングリマーラは弟子となった後も、一般市民から「この人殺し」などと罵声を浴びたりして、ある意味地獄を味わうことになったようですが、仏弟子となりましたので、死後地獄に行くことはないと思います。

 最初は「地獄が怖いから悪いことはしない」でいいんです。そのうち地獄の存在がなくても悪いことができなくなります。また悪いことをしたら反省し、もうしないように気をつければ地獄から免れることができます。もしあなたが「悪いことをした。もう地獄だ」と思っていたら、そのような事はありません。反省してもうしないようにすれば良いのです。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

地獄がどんな所かを知るよりも地獄を無くす人になる

世の中にはそりゃぁ👴いろんな生き地獄がありますわい。
あなたが文字や言葉の情報で知った「知識」としての地獄。それは現実に実際に「どこ」のことか。どこにありますか?
空想、想像、絵空事のことではない。それ以上の生の地獄をしるべきです。本当の苦痛・苦しみ・悲鳴を伴う生の地獄がある。
歓楽街、苦界、スラム街、テロ、エゴイズム、犯罪、偏狭思想…、人身売買、臓器売買、血も情けも無い残虐非道な地獄の住人たちの残虐非道な行為に虐げられて助けを求めたくてもその声すら届かないで苦しんでいる人たちがいる。
その人たちがあなたに今、助けを求めているとします。
「そこのあなた、どうか助けてくれ!」
「今私は地獄について調べている最中でちょっと手が離せません💦」というのが今の様子です。
われわれは一体どこに地獄を思い描いているのでしょう。
地獄についてそこがどんなところであるかをくわしく知る必要はあるのでしょうか。
矢で射られて、この矢は一体どこの誰が射たのだろう?と問うより病院に行くことが先です。死んでから地獄に行きとうないわいと思うのであれば「どう」するのか。地獄に行きたくないから悪いことをしない、善行を積む。それも結構なことです。でもそれではまだまだダメなのです。この世から地獄が無くならないからです。
学問の専門家は学ぶ、知る、研究姿勢の人は多いでしょうが、学ぶということの真意は学びどまりでは役に立たないという話があります。昔、東大の教授が「観音とはなんじゃろな?」と疑問に思っていろいろ討論・議論して「観音とは釈尊の悟りの内容である智慧と慈悲の心を象徴したものではなかろうか」という結論に達した。そこでそれでいいんだろうか、と曹洞宗の西有穆山禅師のところに押しかけた。
「あんたたちはそれをそうだと結論付けたというだけで、それを知って一体誰が救われるのか。わしはそれをとっくにやっておるのじゃが。」と。教授らは顔を赤くして帰っていった。🐔
知ったところで「どう」なるのか。それより「どう」なりたいか。
地獄は誰もが嫌なのは人類共通。それでも、この世には生き地獄があり、今も高僧が悟っても継続している。
死後の世界の地獄について詳しく「知る」ことより、その次のあなたの向かい先が…どこか!誰も救われなければそれも地獄。地獄の在り処はみんな知っている。その地獄を一つでも無くせる人になりましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

光禪様
とてもわかりやすいご回答ありがとうございます。
僕も意識します

丹下様
ご回答ありがとうございます
考えてみます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ