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菩薩道で世俗を仏菩薩として生きるには?

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

これは痛切に思って寝付けない(恥ずかしい…)くらいのことなのですが、たとえばある程度仏道修行を進めて、ある程度自覚なさった人でも菩薩行で一切衆生の心を実際に完全に救いきることは無理ですよね?

というのも、毎日毎日この社会で苦しんでいる人達を見て知り、彼ら彼女らに思いを馳せていて、思い通りにいかずもう苦しくてたまらないのです。
実際にこちらがある程度力になれることでしても微々たるものでしかなく、何かもっと一気にドカーンと救えるアイディアはないのかと欲の煩悩に支配されてしまう毎日です。

要は菩薩道において煩悩を燃やす程度がわからなくて苦しいのです。
苦しいことはただ苦しいものとして受け入れようとしても、実際に苦しい状態だとどうにも苦しみに飲まれてしまいます。

どうかアドバイスをお願いします。
また、この状況に対して参考になりそうな経典はありましたら教えていただけると幸いです。

P.S.
これを書いた後で気づいたのですが、結局は「今、この瞬間」で出来得ることをやっていくしか(成果の大小・多少の差やムラは仕方なしとして)道はない、ということなのでしょうか?

2021年10月30日 18:11

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「思い通り」にならないから人生は苦しいのでは。

 センジョウさん。今日は寝れましたか。
 「菩薩行」ですか。ええ、一切衆生を救うがために菩薩は誓願をたて、佛と成るたに・・・、普段の私の回答ではこういうニッチな話はあえて採用しないのですが、少し気取って回答に入ってみました。
 「佛教」本当に難しいですよね。「佛之教」「佛即教」「成佛道」この3本柱が佛教となされますが、僕は浄土真宗本願寺派の僧侶で多少はまがいなりとも勉強もどきはした気はするのですが、でもどうでしょう。ここhasunohaでは、偉そうにみなさまのご質問に回答していますが、実際は至極弱い、いち人間です、いや、そうなんです。でもね、消極的にそのように思っているわけではなくて、「あ~俺って弱い人間でどうしようもないから。」、って事実として思えるようにしてくれたのも佛教なんですよ。決して逃げではないです、落ちどころ。支離滅裂かな。
 修行をハードになされる僧侶先生方とも昔は接することが結構多かったのですが、勉強になるんですよ。そして、「思い通り・・・」っていうのは放棄していた様な気がしますよ(禅の先生だったはず)。思い通りってかなり難しいから。理想は崇高にもつのも素晴らしいけれども、下手すると自分が苦しくなると思います。確かに、「煩悩即菩提」なんていいますけど、僕も大学2回生の頃(初心者レベル、今もあまり変わらないけど。)で、佛教の思想を、自分に不適切に当て込んでいたことがありまして。やっぱりね、センジョウさんの問の言葉には、その節々に苦しさが滲み溢れていて、純粋に佛教に救いやその根拠を求めている気が僕はするのです。
 僕レベルじゃつまらないかも知れませんが、個人相談してみたい(純粋に話してみたいし)。そして本はね、「経典」を勝手に解釈するとややこしく成るから、初めは、角川ソフィア文庫の『仏教の思想シリーズ』を読破するといいのかも知れません。良書かつ様々な仏教思想に適切に触れることができます(Kindleだと安くて便利)。
 最後に、僕の能力では感想文レベルの回答になって申し訳ありませんが、読み物として参考になればいいかと思います。出来たら、話してみたいけどね。最後まで読んでくれてありがとうございました。回答はここまでとします。

ーーーーーーーーーー
【追記】
 過去の相談読みました。佛教を不適切に人生に飲み込むと辛くなります。文字数の関係上ここまで。

2021年10月31日 2:41
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有り難し
おきもち

~~~基本情報~~~ ● 不定期出没傾向にあり。眼瞼痙攣が酷い時はPCを...
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あなたが選択なさって

拝読させて頂きました。
あなたが苦しみの中におられることを読ませて頂きましたました。あなたのその苦しみは詳細にはわからないです。とはいえあなたのその苦しみは何となくわかります。

苦しみを実感して具体的に知っていくこともとても大切なことだと思います。
苦しみのさ中にあって同じように苦しみのさ中にある他を感じることも道ではないでしょうかね?
自分が向き合うべき対象を知らなければどう対応していけばいいのかわからないですし、取り組みようがないですからね。
ですから苦しい思いをすることは決して無駄なことではないかと思います。

仏様や菩薩様がどのように一切衆生を救いとることができるのかは私はわからないですけれども、先ずは自らと他の苦しみに向き合い受け止めていき、寄り添いながら対応していくことが大切かと思います。
それが私は菩薩道かと思います。

仏道、菩薩道は人それぞれに違うかもしれません。歩み方も違うかもしれません。苦しみに向き合い方も違うかもしれません。とはいえ先ず知ることはとても大切だと思います。

あなたもどうかあなたなりの菩薩道を自ら選び出し歩んで下さいね。

あなたがこれからも豊かな菩薩道を自らの手で選択なさり苦しみから幸せに歩んでいかれますようにと心よりお祈り申し上げます。

ありのままのあなたを仏様も菩薩様も受け入れて仏道にお導きなさって下さいます。あなたなりの仏道をどうかご精進なさって下さいね。またあなたのお心を教えて下さいね。共に精進いたしましょう。至心合掌 南無佛 南無法 南無僧

2021年10月30日 20:32
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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

清水光明様
お答えいただきありがとうございます。
まさに仏教を不適切に人生へと飲み込んでいました。ですが、今はもう大丈夫です。
「そして、「思い通り・・・」っていうのは放棄していた様な気がしますよ」
この文がトリガーとなって助かりました。本当にありがとうございました。

Kousyo Kuuyo Azuma様
お返事ありがとうございます。
まさに苦しみと向き合うことは無駄ではありませんでした。
煩悩即菩提として日々煩悩を受け入れつつ振り回されないようによく気をつけて生きていきたいと思います。

「煩悩」問答一覧

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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