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自己中の息子に怒りを感じ苦しいです。

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高校1年生の息子を持つ母です。

息子は幼い頃からゲームが大好きでした。
中学生になりレベルの高い高校に行きたいと言うようになり、嬉しく応援していましたが、口ばかり達者でゲームばかりで勉強は私が言わない限りしませんでした。
応援したいあまりに勉強しなさいと言う自分が嫌いでした。
ある時ゲームばかりの息子に勉強は?と言うと、お母さんは俺を縛りつけるのを楽しんでると言われ、そんな風に思っていたのかと腹が立ち一度だけ叩いてしまいました。
その事に反省し、もうこの子に勉強やれと言うことはやめようと思いました。応援しても裏目にでるからです。

高校生になり、夏休みもコロナで長引き、息子は永遠とスマホ、ゲームで部屋に引きこもっていました。

家事を手伝ってもらおうと呼んだのですが降りてこず、頭にきてWi-Fiを抜きました。それに腹をたてた息子が児童相談所に通報してしまいました。

私はそれだけで?と怒りが酷いです。そして中学生の時に一度叩いてしまった事を児童相談所の方に息子は言っていました。

私はその時の事は反省し、それから一度も叩いていませんし、息子はゲーム依存を邪魔されただけで通報し、ほんとに腹立たしく嫌いになるくらいになってしまいました。

息子にはもう何も言えません。また通報されてしまうと思うので。

このやりきれない思いがとても苦しく、息子との関わり方がわからず相談しました。

高校生になったら家を出ると言っていて、早く出ていってほしいとまで思います。こんな自分が苦しいです。

息子にはもう何も言わなくていいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ゲームのプレイヤーも人生のプレイヤーも母も子も最高をめざす

ゲームが好きならその仮想空間の中で優れたスキルを目指すはずでしょう。
そのスキルを現実で生かせるように導くのが親というものです。
知り合いの大阪の坊さんがお子さんに反抗期がなかったのは一緒にゲームをやってあげていたからだそうです。どっぷりという程ではないにしても同じ価値観、同じ目線、同じ立場をするということ。道元禅師の教えではこれを「同事」といいます。
同事とは自他のない様子。立場のない様子。所詮同じ人間です。男女や親子の立場が違うと言っても人間誰でも同じようなことでわらい、同じようなことで悔しい、哀しい、腹が立つでしょう。「そこ」は同じなんじゃないでしょうか。
一度お母さんもお母さん・母親・年上という自分ワールド目線を止めてみる。
親子は親子という立場よりもフレンドリーで友達になった方がより中の良い親子になるものなのです。本当の仲良しとは釣りバカ日誌のように平社員と社長であっても立場を忘れている時の様子を仲良しというのでしょう。あなたが会社で上司ヅラした人が一生上司ヅラして踏みつけるような態度で接していたらあなたはその人に対してどう思うでしょう。それと同じようにお子さんもお母さんに対してそういう思いを持っているのです。今はインターネット普及時代ですので、そこそこのお子さんでもいろんなことを知っています。ですが、人生で大切なのは知識よりも智恵。智恵よりも迷いを滅して活路を見出す智慧。叡智。仏陀、釈尊、祖師たちの叡智とは、こちらに持ち物がないからこそ引き出されるのです。私はこうしたい、私はこうしたいという気持ちを滅してから導き先を持つ。
厳しい禅僧はこういいます。
「(自我を)殺して殺して自分を滅し得て初めて人の師となれ」と。
自分を持っているのではないか?と、お互いにご点検を。
都合や、自分のエゴが自分の宿主である限りは人類は最高の主人公となり得ないことは各国の首相や国民性を見ても説明不要でしょう。
人生においては富よりもりも金や権力よりも守もな人間性こそが最上最高の宝なのです。
どうせゲームをするなら、したってかまわないですが、楽しむだけではなく学びと導き先・向かい先をきちんと明確にしたうえでさせることです。
やったってかまわんのです。
ただし、それを現実の世界できちんと手ごたえのあることに変換する力を持たせることが解脱した最高・最強の母の指導力です。✨

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。

怒る自分が大嫌いでした。息子が小学生の頃は仲良しでした。その頃は勉強で怒ることもなかったです。

回答をもらってから、好きなようにでいいんだ、と気が楽になりました。

私は体力的にも精神的にも疲れやすく、ダメな母親と思ってたので、しっかりしないとと気を張っていた所もありました。

でも母親という立場をいったん辞めていいと決め、そしたら怒りも沸いてこなくなりました。

今は少し楽に生きようと思います。

そして笑顔で息子と接していけることを望みます。

ありがとうございました。

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