母の死に対する後悔
数日前に母が亡くなりました。
朝起きたら冷たくなっている母を見つけました。
亡くなる数日前から胸が苦しいと言っていて、病院に行こうかなと話をしていましたが、体が辛くて行けなかったようです。
亡くなった日、私が仕事から家に戻ってから病院に行ったか確認したら、行かなかったと言われ少しイラっとしてしまい、明日はタクシーを使えばいいから病院に行くように伝え、その後は特に特に話をせず…
23時過ぎにそろそろ寝ようかと思っていたところ、部屋の外で母が苦しそうに息をしているのが聞こえました。
いつも少し休むと落ち着いていたので、そのままにしていたら、別の部屋に戻っていきました。
少ししたら2階に来るだろうと思い、母の状態を確認しないまま私は寝るために2階に行きました。
まだ上がってこないなと思いながらも、そのまま寝てしまいました。
次の日、朝起きて母が部屋にいないと思いつつ、1階におりて自分の支度をして母の様子を見にいったところ、なにも掛けないまま横になっていたので、風邪ひくよと声をかけつつ体を触ったところ、すでに冷たくなっていました。
弟に連絡をしたら、救急車を呼ぶように言われ呼びましたが、すでに亡くなっているので警察が来ることになりました。
警察が調べたところ、亡くなったのはたぶん前日の23時頃ではないかということでした。
前日の夜、苦しそうにしていた時、寝る前に様子を確認していて救急車を呼べば、今もまだ生きていたかもと思うと後悔しかありません。
あの日、病院に行っていないというだけでイラっとして声をかけなかった自分に怒りしかありません。
母への申し訳なさで泣くこともできず、顔を見ることもできません。
葬儀が終わったら母のお骨と一緒に年末年始をひとりで過ごすことになります。
後悔を抱えたまま過ごすのは仕方なことだと思いますが、年末年始がただただつらいです。
この後悔はいつか落ち着くのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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悲しい時は涙を流し
さぞご愁傷のことと思います。
人生には「もし」、はありません。考えとして浮かんだとしても、それはただの妄想にしか過ぎません。
お母様は亡くなった。それは避けることもできない定めとして受け入れるしかありません。
お別れは悲しい。どうにかして救いたかったと思うのは仕方がないこと。しかし、この悲しみは悲しいままに涙を流し供養するしかないのです。
そして、49日100日と過ぎていく間に受け入れられるようになってきます。節目節目で供養をしていく中で、楽になってくると思います。
現実と向き合い、ありのままの姿で事実を受け入れ、手を合わせてください。
質問者からのお礼
邦元様
ご回答いただき、ありがとうございます。
本日、母の葬儀が終わり、無事送ることができました。
母の死という現実に向き合い、受け入れながら、手を合わせる日々を続けていきたいと思います。