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おみくじの待人 来る つれありとは?

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有り難し有り難し 37

つい先程おみくじをひいてきました。

待人の項目で初めて出た言葉があり、どう解釈すればよいのか知りたく質問させて頂きました。

内容は【待人: 来る つれあり 】というものでした。

待人の解釈は人それぞれだと思いますし、自分が待っている人だという事かなぁと今まで思ってきました。

私は今、待人と言うべきかわかりませんが、先日お手紙を書いた方がいます。

まだ相手の方の事を知らない事もあり、結婚されているのか、交際中の方がいるのかなどわかりません。

なので、手紙の返事は来るけどそのような上記に書いた存在がいるという意味なのかなぁと捉えました。

捉え方も人それぞれだと思いますし、正解不正解などないのかもしれませんが、どのような意味をもつ言葉なのでしょうか?

考えれば考えるほどよくわからなくなってしまい、あれこれ色々考えてしまいます。

【待人】の意味もできれば教えて下さい。

お答え頂けると大変ありがたいです。どうぞよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

来ても来なくても、それは「そういう形」で来た、ということ。

その事に関する解釈をすることはたやすいですが、そんなことを講釈することは私の役目ではないので、もう少しまともな答えを。
たまたまひいたおみくじという名の紙切れの書いてあることに人生を左右されたければ、左右されればいいだけの事。
他のネットで検索していただくか、他の方の回答をお待ちください。
占いや、おみくじを引くときに起こる人間の心理というものはというものは、そもそも、おみくじを引く前から自分が望んでいることがあるものです。
あなたが「待ち人」という言葉を拾い上げた時に、あなたの中で連想、想像した、答えがすでに心の中で浮かんでいるでしょう。自分の中に想定されら都合のいい答えがあれば、それを採用すればいいでしょう。紙切れに書いてあるモノがおみくじで、リアルタイムで生身の人間があなたの望む答えを導き出そうと話し相手をすることを占い師、というだけです。
待ち人といっても、ぶっちゃけ私だっていいんですよ。→回答を待っていた+つれあり=オプション(回答)あり、ということであなたが望むと望まないとにかかわらず、望ましくない答え=連れがやってきました。
人間というものはそういう根拠の無いことに心を完全に委ねるべきではありません。
頼り無いもの、根拠の無いもの、壊れやすいものはよりどころとするべき事ではありません。
せいぜい、楽しむ程度に上手に心の距離をとってください。
あなたの、待ち人は来るでしょう。ただし、来るべきものが、ただ来るだけです。来ないというカタチであっても、それは来た事になります。
すべては授かりです。願いがかなってもかなわなくても、どう転んでも損得勘定に振り回されず大丈夫で平気に生きる事が仏教です。この回答をあなたの待ち人の一人として、心の片隅に受けとめて頂ければ、誰が来ようが来なくとも全然へっちゃらOKになれますよ。

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有り難し
おきもち

頼りとなるのは自分の心の状態と行い次第

桜色様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えとなります。

これまで占いに関することにつきましては、下記問いにてお答えさせて頂いております。

問い「パワーストーンや運勢についてです。」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002945902.html

問い「厄年は悪い事ばかり起こるのですか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002971916.html

「・・基本的に仏教では、占いの類は、迷い苦しみの原因になりかねず、禁止の扱いとされますが、拙見解と致しましては、例えば、注意を促す、慎重さや謙虚さを求める、強欲・貪り・慢心を諌める、誠意や努力、協調を勧める・・という点で、必要であるかとは存じております。・・」

「・・あまり、暦や占いに支配されすぎたり、束縛されすぎてはいけないですが、暦や占いを全面的に否定するのではなくて、楽しみながら、一つの参考として日常生活に活かすことが大切ではないかと存じております。・・」

「・・自らの人生の様々な結果は、自らの行いに縁って起こります。その行いも善い行いによってこそ、善い結果が望めることになるのであります。「善因善果」でございます。・・」

占いや御神籤などは因果の流れを善くするための一つの参考として判断することが大切となりますが、どうしても主観的自己満足・独善にて判断してしまい、あれこれと迷い苦しむ原因となるのであれば、一旦、白紙状態にして、現実における自分のありようを見つめ直されてもどうかと存じます。

それでも気になるのでしたら、何度か、一からしっかりと本殿に参拝した上で御神籤を引いてみて下さい。同じものが三度、四度と出るようならば、是非お知らせ頂きたいものですが、恐らくそうではないでしょう。様々な条件や原因が微妙にも少しずつに異なってくれば当然に結果も異なってきます。もしも運命が完全に決まっているのであれば、何度引いても同じ内容の御神籤が引けるはずです。そうではないはずです。あまり一喜一憂したり、囚われたりはせずに、頼りとなるのは自分の心の状態と行い次第として調えていくことが肝要になるかと存じております。

お幸せを祈念申し上げます。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ございません。
何事にも惑わされずに、情報も入れ過ぎすに日々過ごしたいと思います。ありがとうございました。

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