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自分の愛するものを狙って奪われたら?

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有り難し有り難し 7

こんにちは、すごく抽象的なので説明が難しいのですが、質問させて頂きます。
この世には人間にある程度どんな形であれ役目というものがあると最近感じているのですが、時折明らかに役目でないものを誰かの見誤りで受けさせられる人、または誰かがやるべきそれにやたらとなりたがって横から奪う人、など居るのを見ます。
例えば、自分は昔から欲しいと思ったものや大事にしている物を横から根こそぎ奪われる事がどうも多く、そしてそれは大抵その奪った本人が飽きると馬鹿にし、目の前で捨てて寄越したり、大事にされる事はありません。そんな事をされると、例えば仕事、愛する人、愛する何かについて裏で歯を食いしばって誠実に努力している人達は意味が無いのかと感じてしまうし、世の中が諸行無常だとするなら何故私達はまだ望むものについて努力する必要がありますか?
自分の人間の主軸になるような役目、または精神的柱や何かを狙って、または悪気も無く根こそぎ奪われた場合、もうどのように生きていけば良いでしょうか?もはやそれすらも我欲があるという事だから手放して生きていきなさいという啓示でしょうか?特にこの自己顕示欲でオバケになっている人が多いような世の中だと、何かを通して自分を見出すというのは安易にやり過ぎれば毒になるような気もするし、だけど執着が無ければ生命力も無いのが人間で、奪い合いの世の中でただ純粋に愛があるというだけで生きていくのはもう困難に感じます。分では無いものを欲しがり、本来分であり務めるべき人達が殺されていくのを見ると、人間これほど皆認知が違うのなら(物理的な話になりますが)何故何かを目指して頑張る必要がありますか?
それとも奪われたら縁が無いのだと思ってもう辞めるべきでしょうか?それが生き方だとしたら他にどう生きていったら良いか分かりません。奪った方や聴衆も裸の王様を演じ続け、世の中が滅びて行こうとも関係無し、本来の実力者が確信犯に暗で殺されていくのを見ると、役目とはなんなのか、分とはなんなのか、何故何に何処に向かって努力なんてしているのだろうと感じています。

2022年1月15日 12:41

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に大切なものはこの世には無い

本当に大切なものはこの世にはありません。
極楽浄土にあります。
この世の中の奪い合いはゲームやスポーツみたいなものです。
ゲームやスポーツは、勝っても負けても楽しいもの。
試合が終われば恨みっこなし。
この世で勝っても負けても、極楽浄土に往生すればみんな菩薩様であり、仲間です。
お釈迦様は、生きている限り苦しみは無くならないと悟られました。
毎日必ず宿題があるのが人生。
ただ、宿題・苦しみの形が変わっていくだけ。
「ちょっくら腕試ししてみるか!」
と、今日の試合でできることをできる範囲でやれば良い。
どうせできることしかできないのだから。
ということで、今日の宿題にどの程度本気を出すかは自分次第。
自分が「やりたいからやっているだけだ」と思えれば、他人に一瞬むかつくことがあっても、心底憎むことはなくなります。
憎しみが減れば人生のストレスが減りますね。
怒りにとらわれて罪を犯す人もいますが、「誰でも煩悩に負けることはある」と、お互い様の理念を思い出せればストレスは減りますね。

2022年1月15日 13:28
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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