神の矛盾に苦しむ。どう考えたら?
カトリックの家ですが、神父さんからも回答が無い問題で、5年間苦しんでいます。死を考える事もあるので、お知恵をお貸し頂きたく、質問します。
ヒルティの幸福論を数年前に読み、非常に感銘を受けました。只、その中に迷信も含まれており、書物や、人との出会いも時によっては導き、だと繰り返し書かれていました。そんなに熱心でもない信者でしたが、そんな事もあるのかと、自分の知らない宗教の神秘を聞いた気がして、信じてしまいました。当時出会った方と結婚までしましたが、彼女は面食いの私のタイプではなく、、すぐに苦しくなり、一年で離婚。彼女は嘆き悲しみました。
別れてからも、自分が神の導きに反した様に感じられて、自分を責めたり、神からも責められている気がして辛いです。洗脳されてるのだと思います。医師にも通っています。神様を信じる事も出来なくなり地獄です。私は論理的思考の持ち主なので、神様が元々の元凶じゃないか、と考えてしまいます。彼女をあれだけ悲しませたのを許せなかったりもします。何の為に彼女と結婚、離婚させたのだろうか、と考えています。彼女の嘆きを代償に、私は何も欲しく無かったのに。
又ヒルティが迷信を書いてたとしたら、何故それを神が野放しにしているかも納得出来ない。仏教でも、仏様を信じ過ぎて、変なことを言ったり書いたりする方はいると思います。その様な場合、どの様にそこから脱出すれば良いのでしょうか?助けて下さい、何卒よろしくお願いします。
もう5年苦しんでいます。自殺を考える位辛いです、、
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「神」が「矛盾」している?
こんにちは。
前々回でご縁があって回答しました。
既に回答したことなのですが、過去のあなたの返信を見るとどうも当方の意図が伝わっていないのかな、と感じているので再回答します。
あなたは過去に「結婚、離婚」した。その際、元奥さんは「号泣」し大変「辛そう」だった。離婚後も、「LINE」でメッセージが届き続けていた。あなたは「彼女と結婚、離婚して何か良い事があったとは思」っていない。このような結果になって、「神様ひどい」。「偉人のヒルティや古代からのキリスト教の中に間違った教え」がある、その「間違った教え」に自分が「洗脳」されたから彼女を悲しめる結果になった、と書いていました。
今回も、文言の多少の違いは有れども述べていることは一緒です。
私は、以前の回答であなたが「神様」のせい、「ヒルティ」のせい、「キリスト教」のせいにするのをやめたらどうですか、と言ったつもりです。少し迂遠な言い方だったので伝わらなかったのでしょう。
ここは、キリスト教ではなく仏教のページなので書きますが、仏教は過去の行為とその結果を決して人のせいにはしません。よしんば「仏様を信じ過ぎて、変なことを言ったり書いたり」したとしても、それはあくまで「仏教」を受け止めた本人の責任に帰するものです。決して、仏様のせいにはしません。また、そのような教えの構造になっていません。
あなたはご自身で書いています。
「彼女は面食いの私のタイプではなく、、すぐに苦しくなり、一年で離婚。彼女は嘆き悲し」んだと。それは、「神様」、「ヒルティ」という壮大なお話ではなく、あなたの好みの問題だったのです。そして、その外見的好みが「離婚」のもっともな理由になると考え、それを実行してもいいのだ、というあなた独自の判断だったのです。
そもそも聖書に、「ヒルティの幸福論」に「タイプ」でなけば「離婚」してもいいと書いてあるのですか。
前回も言ったように、「矛盾」は「神」の側にあるのでも、「仏様」の側にもあるのではない。人間の側にあるのだということです。
それは神ではなく「精神」
神とは人間の都合や価値観や主義思想を超えた様子。
一方、人間のエゴは自称神学者でも仏教学者でもエゴイストはエゴイスト。
それは精神がド人間だからです。
真に導くもの、真に善導するものは、この上ない最高最上の心に向かわせる作用となる。作用そのものが神仏に通ずる。だからこそ、エゴを離れた純粋善、純粋なる慈愛の精神となるのです。
人間は人知🍏の都合でモノを見るようになった。私がこう思う。私はこう思う。私が私流に我流にエゴイスティックに都合を立てる。それが人間の条件付けというモノでしょう。同じ作者の本でも同じ聖書でも同じ経典でも見る人によって意義や意味や解釈が異なるということが起こるとすればそれは人間の都合やエゴの観点から眺めたものだからでしょう。つまり、いまだ神仏の域、神仏の本当の意図するところ境地に到達していないということなのです。
そうしたエゴの観点から眺めれば、トンガの火山も「神よ、なぜこのような無慈悲なことを…?」と人間の主観から見た自分の都合の良い髪を立ててものを眺めるようになる。それこそトンガならぬ貪我。我のとんがった我流の正義正論で神仏をも罰するエゴの剣。正義であっても人を斬り、神ほとけをも斬るのであれば邪見。邪剣。
迷信も、スピリチュアルも、非二元論も、ヨガも、瞑想も、共産主義も、仏教学も、神学も、小説も、アニメも、それが妄想や行き過ぎたファンタジーであっても、それらがそれらとして誰をしてどこへ導くべきで、どこへ向かわせしむるべきですか?
サンタを信じる子供たちに「サンタなんぞいねぇよ」と突き放してプレゼントも笑顔も無い家庭よりも、敬虔なクリスチャン名目あるいは厳粛な仏教徒の家庭で厳しさのみで良い子が育たなかった家庭よりは、たとえ無宗教でも笑顔のあふれる子供たちを育てる家庭が存在するならそっちの方がより暖かで安らかな人間がいるということでしょう。
そういう人間の観点に立てば、今からでもその女性に対してきちんと懺悔して、やり直せることがあるのであればやり直せることをやり直すということは不可能ではないはずです。
やり直すべきは人間性の向上のための軌道修正と、苦界に落とし込んでしまった相手への謝罪や懺悔。あるいは責任ある行動というものでしょう。
誰もが元は未熟な人間であっても、その人間性を改めて最上の人間性を追求すれば神仏にならずとも心が等しくなるものです。
キリスト教も仏教も
peterさま
ヒルティの修道姿勢は、意外にも戒律を重視する仏教にも通じるところがあり、また、キリスト教にありがちな神秘主義的側面はあまりなく、論理的、現実的な思考に基づいたものであると高く評価しています。
この度は、そのヒルティの教えの中での「縁」に関することにおいて、その解釈を誤解、盲信してしまわれたことに起因した悩み、苦しみであるのではないだろうかと推察致します。
「信」とは、完全に任せる、異議を唱えずに従う、疑念さえも抱かずに受け入れるというものではありません。
仏教においてもそうですが、その教えが真に正しいのか、信ずるに値するのか、それは自分自身でしっかりと合理的、論理的に何度も繰り返し検証し、その上で納得して受け入れたことを実践していくということが大切なことになります。
「金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして教えを受け入れていくべきである」というのが仏教の基本的な「信」の姿勢でもあり、それはキリスト教においても当然に言えることではないだろうかと存じます。
誰に対しても平等に敬愛を抱いて、どのようにより善き生き方、幸せな人生とするべきか、他を幸せとすべきか、その指針としてキリスト教も頼りとするものであり、それに反したこと、結果となってしまっているのであれば、やはり、どこかに問題があるのだと反省して、改めていかなければならないのではないだろうかと存じます。
合掌
質問者からのお礼
釋先生
ご回答ありがとうございます。おっしゃる事分かります。只一点だけ、信者を迷信に陥れる様な書き方をしているヒルティにも非が
ある様に思います。神を深く信じているが故に、そんなヒルティの主張をそのままにしている神へ不満が出てしまうのです。
Eishun先生
ご回答ありがとうございました。大変慰められました。やってしまった事は仕方ない。彼女を傷付けた事で苦しみますが、偉人でも間違った事を書く事もあると肝に銘じて生きて行こうと思います。
丹下先生
ご回答ありがとうございました。
おっしゃる事分かりました。彼女には謝罪はしました。罪悪感で辛いですが、それは仕方ないので、少しずつ自分を許して、同じ事を繰り返さぬ様に気をつけようと思います。