人に依存することについて
少し前に人からとても傷つくことを言われました。でもその時すかさず強がってしまいました。その時、傷ついた気持ちを仕舞い込んでしまいました。
その人のことはとても信頼いました。しばらく明るく振る舞っていたけど、仕舞い込んだものがあったから、なんかずっと苦しい感じでした。
さらにしばらくして、傷ついたときに気持ちを仕舞い込んでいたことに気がつきました。ワーとそれまでの苦しみが謎が解けた様に明らかになりました。
その人にもその話をしました。ちゃんと受け止めてくれました。その話をしてから毎日が明るくなりました。
この経験から、わたしは自分の気持ちを大切にして生きようって思いました。なかなかうまく行かないですが意識して過ごしています。
そうやって過ごしていると、自分の気持ちを素直に全部話せる人と気持ちが繋がりたいと思いました。部分的に話せる人はたくさんいます。でも全部話せる人はいません。
全部話せる人が欲しいと思うのは、依存したいということなのでしょうか?よくないことなのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
適度な依存は、心を保つために必要。いくつかのポイントがある。
そんなことはないですよ。適度な依存は、心を保つために必要なことです。人は、一人で全てを抱え込むことは出来ないのだから。抱え込んだら、潰れてしまうのです。依存先をたくさん持つことをお勧めします。
ポイントとしては、一人の人だけに依存しないこと。全てを背負わせるのは、大変なことです。相手にもプライベートや抱えているものがありますから、相談するなら、相手に受けとめるだけのキャパがあるかどうかを考えて。そうでないと、せっかくの理解者も、重たく感じて離れてもいきます。
また、部分的に話せる人も大切にしましょう。部分的であっても、話せる.聞いてもらえることは、気持ちをラクにしますよ。
具体的に何から何まで包み隠さずに打ち明けることが重要なのでしょうか。あなたのしんどい部分(要)を軽くすることなので、部分的であっても大事な関係ですよ。
そして、知り合いだから言えること。知り合いじゃないから、全てを言えるって場合もあります。利害関係でないから、遠慮なく打ち明けられることもあります。
ネットのお坊さんに相談する、個別オンライン相談を利用するのも、ここだけの話にしてくれる信用と良さがあるからです。
最後に、打ち明けるのは人でなくてもいいのです。解放出来る場所.時間、そういった空間も、自分を見つめ直し、吐き出せる機会になりますよ。文字にしたりね。
また、ここに来てしまった。またこうやって書き出してしまった。それも、気持ちの整理に繋がる依存先です。
あなたに合うバランスで、どうぞ、生きやすくね。
質問者からのお礼
あたたかいご回答ありがとうございます。依存してはいけないとか全部話したいとか、わたしの考えの偏りに気づくことができました。1人の人じゃなく、たくさんの話ができる友人を大切にしたいと思いました。また、文章にするのもいいのかもと思えました。
本当にありがたいです。ありがとうございました!