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遊び惚けていていいのでしょうか?

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毎日が日曜日です。遊び続けるのも疲れました。何か生き甲斐とかライフワークが欲しいです。

どうしたら見つかるでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本気になる

こんにちは。

私は、僧侶であることが「生き甲斐」であり、「ライフワーク」です。
また、趣味の範囲内ですがサックスを吹くことも、「生き甲斐」であり、「ライフワーク」です。

前者も、後者も縁があったからこそ、です。
縁とは、「見つかる」ものであり、「見つ」けるものでもあります。

尚、私は両方とも本気で取り組んでいます。
だからこそ、両者とも「生き甲斐」、「ライフワーク」と呼べます。よく出来たら本気で嬉しいし、出来なかったら本気で落ち込みます。

あなたは、「遊び」に「疲れ」ているようですが、言葉を換えると「遊び」に空虚さを感じている、ということなのでしょう。それは、きっと「遊び」にはいつも本気じゃないから出来なくても良い、という逃げがあるからではないでしょうか。本気で取り組めないものには、必然的に充足感も伴いません。

方向性は二つです。

・その「遊び」が何かは分かりません。しかし、それを本気で取り組めば「遊び」でなくなるはずです。例えばゲームも本気になれば、プロゲ-マーになれます。

・「遊び」以上に魅力的な何かを懸命に見出そうとするならば、必ずそのご縁との出会いはあります。そこに「どうしたら」という具体的なハウツーはありません。ただ、本気になれば見えてくるし、出会えるものです。

何れにせよ、本気になるということです。
良いご縁を見つけられるといいですね。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

自分の人間性が向上するために遊ぶ。他を利する。

ぬるい坊主には絶対になりたくないと思って今日まで結局まだまだノコノコとグダグダとアマアマのヌルヌルで生きてます。
むかしの坊さんたちは本当に立派な人が多かった。
活きた菩提心のカタマリ。歩くだけで人を救う。
武道の神様もそう。動くだけで武の理に適っている。
ああ、こんなお坊さんがいたのか!いてくれたのか!すばらしい!と「私が勝手にこういう人こそお坊さんだ!」と思う活動をされた人を慕い、足跡のおっかけをしたり、そういう人をさがしてきました。
本山で修行中の頃、禅会に〇田ヌケ作(仮名)という方が出家したいと坐禅会に来られていたのです。ところがヌケサクさんはいつも愚痴と坊さんの悪口ばかりで。もっとこういうことをやってほしい、こうであってほしいと言われるのです。私にはよくわからんかったですが「自分がそうなればいいのに」と思うだけでした。ですが同じ心理は私にもありました。坊さん業界で坊さんたちが坊さんルールに互いに縛られ五人組のような縛られで周りと違うことができないような宗派ロボット僧侶となりつつある中で、私も他の坊さんに理想を求めるようになりました。尊敬する老師の説法会に参ずる中で宗派の現実をぶぅぶぅとぼやくこともありました。「人に求めているうちはだめ。」「あんたが(自分で)やんなさい。」と。💡
本山のカメ仙人(仮名)から聞いた話ですが、🐢私らの頃は正月にはミカンの段ボールの上に立って説法している坊さんがいたもんだ。
なにそれ!?そう。それが大事だ!来てくださる方に法施がなくてどうするのか!私もそんな風になりたい。同じようにやり始めました。煙たがられましたが。
亀仙人はこんなことも言ってました。
🐢私らが布教師の養成所に居た頃、当時、永平寺の禅師さんになると言われていた故楢崎一光老師が本庁に来られてね。せっかくだから布教師の卵たちに一コマお話をしてくれと言われて…、老師は「あんたら布教師というものは…(中略)火葬中に何をやっているのか!どうしてそこで仏法を説かんのか!(# ゚Д゚)世間話でもしとるのか!!」といわれてガーン!( ゚Д゚)となってね…。それを聞いて私もガーン( ゚Д゚)となって「こんなことしちゃおれん」と思うようになったとです。きっかけは人であり、自分が最初から持っている志があって、それに共鳴することに触れることですよ。釈尊の利他の説法教化は遊行という。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

本気になれることを見つけるには何でもやってみないとわかりませんよね。行動を起こしたときに、縁によって導かれ、人とのつながりができるのですよね。私は笛や一五一会という楽器ができます。それらが生かせる時間・場所を探してみます。また「一度聞いたら忘れない声」の持ち主だそうで声を褒められたことがあります。なんか方向性が見つかったような気がします。気づきを授けていただいたお二方のお坊さんに感謝します。ありがとうございました。

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