自分をコントロールできません。
自分自身の煩悩なのかは分かりませんが、普段はイライラしてしまっても人に当たったりはしないんですが、不意に人に当たってしまった時が何回もあり、その時は後で家族でも色んな人にも謝っています。自分は人の悪口を言わないようにしよう。絶対に自分が不幸せだと思っても誰かに当たらないように心がけていますが、自分に嫌な事をする人の悪口をつい親に言ってしまうとずっと溜息しか残りません。自分は人に平気で陰口、悪口を言ったり、酷い事をする事など死んでもしたくありません。そこまで悪い人間にはなりたくないとずっと思っています。心が綺麗になるという場所、神社、お寺にも行きましたが、心が洗われているのかさえわからない状態です。自分がこういう性格だから悩まされているのかどうかアドバイスお願いします。
もし、自分が、悪い事をしたとして、神様、仏様が地獄に落ちなさいと言われるのなら、素直に受け入れるようにしています。 誰かに死ねとか言われても、自分が死んでいい人間なら誰かに命をとられてもいいという思いで生きてます。一応、自分は六道がかっこいいと思っておりまして、親にも理解されてませんが、自分はそういう性格です。
自分自身、自分の煩悩をよくわかっておりません。ですが、自分に確かに煩悩があるとするならば反省する道に神様、仏様に導いてもらおうという気持ちしかありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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心とは汚れているものと考える
まず、残念なことに人間とは汚い存在です。
垢、汗、便と人間から出るものを、人間は“汚い”と言うのです。
そんな人間が作る世界もまた汚いです。
今奇麗な街が広がっているのは、汚いところを隠してくれるために働く人がたくさんいるからですよね。
心もまた同じです。
怒りや恨み、妬みなどのあなたの言う“汚い”面もまた、心の一部なのです。
心が全く汚れていない人間などいません。
人間として生きる中で、汚いものを必ず見なければならないからです。
だからこそ、怒る自分、妬む自分を認めるところから始めましょう。
不潔なことを認めない人は清潔になれません。
自分の心に悪い部分があるのに、『そんな部分がある人間は悪い人間だ』と考えてしまえば、認めることができなくなります。
認め、受け入れ、その心でいる時間を“少なくする”と考えましょう。
無くすなんて大それたことをしてはいけません。
便を作る機能が体にとって不可欠なように、怒りを作る心の機能もあなたにとってかけがえのないものなのですから。
質問者からのお礼
素直に受け入れるように頑張ります!ありがとうございます😊