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八つ当たりを受け流したい

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有り難し有り難し 11

チーム単位でのサービス業をしております。
最近顕著になってきたのですが、私は人より八つ当たりをされやすいようで、それを気にしないようにしたいのです。

そのチームでは私は比較的古株にあたり、若手スタッフの指導やフォローに当たる立ち位置にいます。
比較的年齢層の若いチームなので皆自己主張が激しく、不満をそのままぶつけられてしまいます。
時には別チームのスタッフにも無関係の件で強く当てられます。

上司がそもそも感情が態度に出やすく、言葉選びが強めのため、自分がフォローとクッション役になっていたのですが、それもあり周囲に甘えられる=当たっても許される、と思われている気がします。

正直なところ、相手も人間ですし、私にだって喚き散らしたくなる時はあります。
当たられた時も一度受け止めてから、でもそれは違う、余裕がないならそれを解消しましょう、と話し、大抵は落ち着いてくれるので、悪い人ばかりではないのです。
 
また、チーム内に理解してくれるスタッフもおり、八つ当たりに遭ったら自分でも何故〜〜〜〜〜!?!?!?悔しい〜〜〜〜〜!!!!美味しいもの食べて切り替えよ!!!!と過ごしていますが、職場自体に感情的な人間が多い為、あらゆるところから責任転嫁や強めの口調があり、シンプルに八つ当たりが不快です。

コロナ禍で易々と転職は出来ないので、自分で環境を変えようとしましたが、結局上司の采配で元通りにされてしまいます。
いっそ「気にしない」を極めてみるか...と思い立ち、質問をさせて頂きました。

他人の悪意を気にしないために、普段行っていること、心掛けていらっしゃることがあれば、お言葉を頂けませんか?
どうぞ宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

八風吹けども受け流す 最高の善意のためだけに行動する

勝手に本人が本人の中で自分の「感想を言っているだけ」です。それが言葉というものの正体です。それに対して上手に機能させる者はその相手の言葉から自分を進化させ、向上させる。ネガティブに受け止めるものはそこで勝手にダメージを受けるのです。残念ながらそれが真実です。だから、あなたはこれを目にすることができたたぐいまれなるラッキーな人たちの中の一人なので、この道理をわきまえて採用してたった今から耳にする他人の言葉を上手に「転ずる」のです。これをマロバシという。
まろばしとは「転ずる」こと。より良い価値へと転ずること。私がこのhasunohaの回答の中でしきりに菩提心や善導や転ずるというのはちゃんとより良い導き先を見出してその輝かしい方向へ向かって今の状況を「転ずる」という事です。それをしないとどうなるか。人は悩み続ける。負の沼に浸って沼の中のヒルから血を吸われるようになっていく。
八つ当たりも、八風も八難もさらに分割してみれ16風、32風、64風、128風…、人間のつまらん小さな我の吐息に過ぎないものでしょう。
だから、その相手の愚かしくもかわいらしい言葉もあなたはいちいち「大人物が言った言葉であるかのように錯覚しない」ことです。その人が世界のリーダーでロシアとウクライナの戦争を停止するほどの立派な智恵、アイデア、見識を持った人間であれば大いにその人の言葉をキャッチャーミットで受け止めてよく咀嚼して同調してその人の意見をもとにロシアもウクライナも世界の人々も納得させるアイデアにすればいいでしょう。ですが、所詮、悪意は悪意です。あなたも救わない。本人も救わない。職場のみんなに誰にも得にならない。徳にもならない。
だからこそ、こちらが徳の衣、人道主義の衣、人間性を理解する賢者の衣、どんな困難も障りのない心へと転ずる衣、菩提心の衣を身にまとい、ノーダメージ&善導する姿勢を身に着ければいいだけです。私には無理だと思うと思った瞬間からやらなくなる。採用をしなくなる。あなたが今後の人生で変わるためには今から私と約束するつもりで二度と人間の悪意に屈することはしません、と心をより高い心を目指して自らこころざしを高く持つことです。
八風吹けども動ぜず、というよりはその人間心理を見抜いてかわす。他人の独り言や感想には耳を傾けない。ただ最高の善意のためだけに行動すれば結果すべて吉祥です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
ご助言有難うございます。
最高の善意のために行動する、という言葉、とても素敵です。
他人の強い言葉はただの感想。
私ができること、やるべきこと、周りの人の善意に応えることに対して素直に向かっていけそうです!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ