命に対するジレンマ、疑問
看護師をしています。
私は病院で働く中で多くの患者様を見てきました。軽症から重症まで。若い人から超高齢者まで。
その中で、看護師として働くことを諦めるような悩みを抱えました。
ご高齢の方や終末期の方は、死への恐怖というより現在ある痛みや苦しみ、排泄など恥ずかしい部分を他人に見られる羞恥心などから、もう楽にしてくれという方が多くいました。殺してくれとも。
命を救う側の私たちは、目の前の命を救うという責任があります。見捨てることはできません。
しかし、それでも何度も何度も楽になりたい、あちらの世界に生きたい、今自分の意思で生きているのではなく他者に生かされてるだけだと、涙ながらに、そして時には怒りながら訴えられました。
そんな方々を多くみる中で、私は看護師として生きることを諦めないようにお話をする機会もありました。
その中で私は、ここが生き地獄だと思っている人たちを救うことが本当に人のためになるのだろうかと疑問を持ちました。
本人の意思ではないのに、多くの管で繋がれ、ベッドに縛り付けられてまで命を守ることが本当に正しいのだろうかと疑問に思いはじめました。
私はこの疑問に対する自分の中での答えが出ず、看護師を一度完全に辞めました。このような疑問を持つことは、命を救う立場の者としてあってはならないと思ったからです。
世の中には尊厳死や安楽死などの言葉が存在します。尊厳死は、延命治療を無理にせず苦痛を取り除きながら、自然に死を迎えられるようにというものですが、日本の医療の現状としてなかなか行われていないのも事実です。苦痛は痛みだけではありませんし。安楽死などもっての外です。
以上の過程があった上で相談したいことは以下の通りです。
・生命は大切にしようとよく言われるが、そもそもその考え方はどこから生まれたのでしょうか?生き地獄だったとしても必ず守らなければならないのでしょうか?
・安楽死などの考え方について、仏教の視点からはどのような考えがあるのでしょうか?
・命の大切さという根本的なところが分からなくなっている私は医療従事者として失格でしょうか?
長文で申し訳ありません。
お時間のある際にご回答いただけると幸いです。
・怒りや悲しみ、つらさや不安などマイナスな感情を外には出さず抱え込む ・看護師をする中で抱いた、命の大切さに対してのジレンマ。 ・仕事を続けることができず、ダメな奴と自分で自分を責める
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
命が大切=目の前で死んでほしくない
・命の大切さ
『命は大切』とは、『お金は大切』に似ています。
もし命自体に価値があるなら、『虚しい人生』というモノは存在しないはずです。
命もお金も大切ではありますが、そのままその人にとって価値があるわけではありません。
自分にとって価値のある時間、思い出、経験、品物などに替えられるから、大切なのです。
命にしても、お金にしても、“そのもの”を後生大切に抱えていても、虚しい人生になってしまうことは、なんとなく皆が感じていることでしょう。
しかも、命はお金と違って稼ぐことができず、使わなくても日々減っていくというおまけつきです。
あなたの言う“生き地獄”とは“命だけあって使えない”状態のことではないでしょうか?
『お金はあるけど、使えず、日々減っていくだけ』という人生を想像してください。
それが生き地獄の不安、恐ろしさです。
私は『生きる』だけではなく、『生き切る』ことの方が大切だと思っています。
・安楽死について
老いや病から逃げるために死を選ぶのは、死の苦しさを正確に認識できなくなってくるからだと思います。
どれもが四苦数えられるものですし、そもそも仏教は苦を除くのが目的なので、苦から苦へ乗り換えるような安楽死は賛成しかねます
しかし、命をいたずらに引き延ばして苦を増やすような延命治療にも反対です。
前述の『生き切る』を達成しにくくなると考えるからです。
・医療従事者として
あなたが抱える問題と言うのは、医療技術の発展に、人間の価値観が追い付かないことから起こるものでしょう。
100年前の医学は、発展していく過程で“本来なら死ぬしかない人”を“可能なら救う”のが仕事だったことでしょう。
しかし、現代は“ミスがなければ生きられる人”を“殺さない”のが仕事になっていませんか?
あなた方医療従事者は、100年前だったら死んでいたであろう人の95%をすでに救ってしまっているのです。
医療はすでに、『ちゃんとやれば感謝される仕事』から『失敗したら責任が取れない仕事』へ変貌したのです。
それを認識して考えることが、あなたの矛盾を救うことだと思いますよ。
ビハーラの理念より
みぃ 様 相談ありがとうございます。
まずは、安心してください。あなたは医療従事者にふさわしい。
命や苦への確たる答えが急にわかるものではないでしょう。
体験と学びの中にわかっていくと思います。ですので悩むあなたは素晴らしいし
どうぞ看護を続けてください。
私のお寺では近くの看護学校の学生が、死生観を学びに来ます。
その中であなたのような悩み苦しみに対して、ビハーラ活動を紹介しております。
簡単に言えば、仏教版ターミナルケアです。
その中での苦痛の考え方は、ご存知と思いますが、
1、肉体的苦痛 Physical pain
2、精神的苦痛 Psycological pain
3、社会的苦痛 Social pain
4、霊的苦痛 Spiritual pain
の4つです。その中で
4の霊的苦痛(死への恐怖と不安) Spiritual painを九つに分けて話しております。
1、苦痛への恐怖
2、孤独への恐怖
3、不愉快な体験への恐れ
4、家族や社会の負担になることへの恐れ
5、未知なるものを前にしての不安
6、人生に対する不安と結びついた死への不安
7、人生を不完全なまま終えることへの不安
8、自己の消滅への不安
9、死後の審判や罰に関する不安
そして、宗教者としては
1、自分の生涯を、価値あるものとして評価し納得する手助けとしての宗教。
2、目に見える仲間、目に見えない仲間による支えとしての宗教。
3、死と死後の不安と恐怖を解消し、安心を得る教えとして宗教。
との理念(心構え)をもって、学び実践するようにと教わったので、
それを看護の学生にも伝えております。
結論的にいうと、死生観の再構築をということで、以下の項目をお話ししております。
唯物的生命観⇒仏教的霊性の再認識
死のタブー視と無防備⇒死への心構え
若さ・健康・長寿⇒こころの豊かさ
病者・死者⇒家族・遺族へのいたわり
形式的な葬儀・法要⇒共に霊山往詣するための葬儀・法要
儀式のための宗教⇒抜苦与楽のための宗教
厳しさ・重苦しさ⇒よろこび・はげまし・やすらぎ・安心。
あなたの悩みは患者の気持ちに寄り添える人だからこそですね。きっと大丈夫です。一礼
追伸:御礼メッセージありがとうございました。迷う時は遠慮なくご相談くください。字数制限でここでは、ここまでです。ご縁に感謝です。再礼
質問者からのお礼
お忙しい中、お答えいただきありがとうございました。
初めは四苦などの理解が難しくすぐには内容を理解することができなかったのですが、調べていくうちに仰りたいことが分かりました。
自分にとって大切な何かにかえるために、行き切ることが大切。とても納得しました。病や老いなどに苦しんでいる方は、これによって大切な何かを生み出すための行動や時間が取れないから、苦しいと訴えるのだと思いました。
教えていただいたことを元に、もう一度自分が一番納得できる形で、医療従事者としての考えを深めていきたいと思います。
ありがとうございました。