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どういう振る舞いが正解でしょうか

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最後は死ぬというのが分かり切っているのに頑張る意味が分かりません。
なので自殺しようと思ったのですが、できませんでした。

頑張れば自殺できそうなのですが、そもそも頑張らないために自殺をしようとしたのに、頑張って自殺するというのが間違っていると思ったので、やらないことにしました。

このまま何も頑張らずに、寿命が尽きるのを待てばいいんでしょうか。これあとどのくらい続くんでしょうか。今20代なのですが。60年くらいですかね?もっと全然早いかな?

でもどういうわけか意味が理解できないことを自発的にできないんです。そして今は、運がいいのか悪いのかこんなことを言いながらここに書き込みをしていても許されるというよりはばれない状況にあります。この状況が持たなくなるのを待てばいいんですかね?自分からこの状況を抜け出すというのはいろいろ試してみましたが、何というか上の文章と同じ論理で自発的にできないみたいなんです。

こんな人間は一体どういう考え方でどういう振る舞いをするのが正解なのでしょうか。

無茶苦茶なこと聞いてるしさっさと死ねよと思われるのも当然のことかと思いますし、現に一度もこのような話題を匿名ですら、他人様と共有したことはありませんでした。

でもお坊さんなら何か答えてくれるのではと思い、質問してみました。よろしくお願いします。

2022年4月16日 22:22

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今日という日は

こんにちは。

「現に一度もこのような話題を匿名ですら、他人様と共有したこと」がない、と書いています。今回が、その「共有」の一回目だということなのでしょう。「お坊さんなら何か答えてくれるのでは」という気持ちに応えてみたいと思いました。

私は、今回あまり長々と文章を書かない方が良いと思いました。
どちらかというとあなたは理詰めでものを考える人のようです。理詰めに理詰めで答えると、その延長上で次の理詰めが始まります。これは、効果的な応答ではないと判断します。よって、シンプルな事実を一つ伝えますから、あなたの方で色々感じるなり、考えるなりしてください。

過去に聞いた印象的な言葉です。

今日という日は、亡き人が生きたいと切に願った一日である。

病に冒され、災害に見舞われ、戦火に遭って、どれだけ生きたいと思っても叶わなかった。
やりたいことがまだあった。
家族ともっと一緒に居たかった。

今日も他ならなぬその一日です。

その先立った人から見て、あなたの言葉はどう聞こえるでしょう。

「このまま何も頑張らずに、寿命が尽きるのを待てばいいんでしょうか」
「頑張れば自殺できそうなのですが、そもそも頑張らないために自殺をしようとしたのに、頑張って自殺するというのが間違っていると思ったので、やらないことにしました」

想像してみてください。
あなたがどう受け取るかは、お任せします。
そもそも「正解」なんて必要あるんでしょうか。

追記
返信ありがとうございました。
「もう少し考えてみよう」との事なので、時間をかけてみてください。

受け取り方が主旨と大分違う方向に行きそうなので断っておきますが、「呪い」とか「亡き人の圧力」という意味は全く有りません。

有体に言えば、あなたは今日という1日の価値を分かっているか、という問いかけを私はしたつもりです。

一度仏教の入門書を読む事を勧めます。仏教について先入観と固定観念があるように感じます。

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追記
まずは基本的な仏教用語をネットで調べてみてはどうでしょうか。
「日本テーラワーダ仏教協会 心を育てるキーワード集」というサイトなど面白いです。
ウィキペディアでも結構参考になります。
あと、「ブッタとシッタカブッタ」という漫画は仏教用語を知らなくても楽しめます。
経典を日本語で読みたい場合、岩波文庫の中村元の著作は有名です。大パリニッバーナ経(ブッダ最後の旅)など多数あります。

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質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

私は、「こんな人間は一体どういう考え方でどういう振る舞いをするのが正解なのでしょうか。」という質問をしました。
それに対して、シンプルな事実である「今日という日は、亡き人が生きたいと切に願った一日である。病に冒され、災害に見舞われ、戦火に遭って、どれだけ生きたいと思っても叶わなかった。やりたいことがまだあった。家族ともっと一緒に居たかった。今日も他ならなぬその一日です。」という指摘と、「その先立った人から見て、あなたの言葉をどう聞こえるでしょう。」という言葉をいただきました。

やはり、生前生きたいと願っていらした亡き人にとっては腹立たしい言葉になっていると思います。
これはつまり、生前生きたいと願っていらした亡き人を怒らせないようにこんなことは考えるべきではないというお叱りということなんでしょうか。
それともあるいは、生前生きたいと願っていらした亡き人の圧力というかプレッシャーというかもはや呪いみたいなものを感じながらそれにおびえてビクビク生きるべきであるという提案なんでしょうか。
それともなんか感謝とかそういうのと結びつけるべきなんでしょうか。

もう少し考えてみようと思います。

重ねてご回答ありがとうございます。

願誉浄史先生
ご回答ありがとうございます。

私が赤ちゃんの時、私の人格は私の両親の遺伝形質とそれらの偶発的な組み合わせ、母体環境との相互作用で規定されていたと思います。そして、赤ちゃんの私に当時与えられた外部の影響を生まれた時点で規定されていた赤ちゃんの私の人格ができる範囲の解釈、反応を通して経験、記憶という形で保存、改変、再解釈を無意識に繰り返し、時間が経過し、体が成長し、幼児期の私の人格が規定されていたと思います。そして小学生になるまでに、より複雑になりますが同じ形式の過程を経て小学生の私の人格が規定されていたと思います。そして、中学、高校、大学、現在と上がるにつれより加速度的に複雑性が増していくものの、根本的には同じような人格の規定のされ方がなされていたし、これからもそうなのだと思います。

現在の私は特に生きたくもないし努力してまで自殺する気にもならないというような状態にあります。そんな中で、「こんな人間は一体どういう考え方でどういう振る舞いをするのが正解なのでしょうか」というかなりばかげて見える質問をお坊さんに質問できるというサイトであえてしてみました。その結果回答者様のお二方とも、仏教について調べるようにと勧めてくださいました。ですので、一旦「仏教について知りたいという考え方で、仏教について知ろうとするという振る舞い」をしてみたいと思いました。

もしよろしければ、ずぶの素人向けのおすすめの書籍などありましたら教えていただけないでしょうか。やはり、自分で選ぶよりお坊さん直々におすすめとあったほうが、楽しみながら読むことができるような気がするのです。

重ねてご回答ありがとうございます。

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