人間が面倒だと感じることがあります。
これまでの相談を始め丁寧に読んでくださる皆様にお礼申し上げます。
私は看護師をしていますが、対人の仕事をしているのにも関わらず、人間って面倒だなと感じることが最近多くなりました。
関わっている方々が抱える問題は決して軽い内容ではありません。疾病に限らず、介護のことや虐待のこと、家族関係や金銭面のことまで多種多様です。
そのような事例に触れるたびに、人間とは何とめんどうな生き物なのだろうと思うのです。
欲があること。感情があること。発達した頭脳があること。これは人間らしさとも言えますし、進化した結果です。しかし、これらがあるから揉め事は起きるし、結果として泣いたり死にたくなったりする人が現れるわけです。
私も人間なのでもちろん欲や感情はあります。しかしそれが前面に出てきた時の自分に対しても、面倒だな私と思ってしまうのです。
人間ってめんどくさいなと思ってしまう私はおかしいのでしょうか?
ざっくりとした相談で申し訳ありません…
・怒りや悲しみ、つらさや不安などマイナスな感情を外には出さず抱え込む ・看護師をする中で抱いた、命の大切さに対してのジレンマ。 ・仕事を続けることができず、ダメな奴と自分で自分を責める
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
深入りしない慈悲喜捨
大事故や大病を治すとき、医師のチームはまず患者の体が落ち着いて治りたくなるまで待って、体が治りたくなったら治療を始める、ということを聞いたような気がします。体が自分の体について呆然としているときは治療しても治癒する力が体から出てこないから待つのだ、と。
心の面についてはもっと大変だと思います。同じケガや病気でも患者やその環境によって本人や家族の反応は様々で、いつまでも収まらない怒り、悲しみ、イライラがあったりして、医師のチームもへとへとになると思います。なんとなく、医師や技師は患部に集中し、看護師やスタッフが全人格までケアしてしまいがちなような気がします。精神的にへとへとになるのは主にそういう役割をする人々でしょう。
仕事として多くの人々の体や心までケアし続ける中で発見した「人間って面倒くさいなあ」という気持ちは、ただの怠けではなく、発見された真理だと思います。仏教では、生きることはそういうもの、苦(不安定)だと言います。
仏教では、そう発見したうえで、これまで通りの付き合いを続けます。いいかげんに、ではありません。「人間はそういうものだ」と知ったら、むしろ適切な対応を取ることが上手になります。相手のことを心配しつつもこちらがドンと落ち着いていると、相手も落ち着く場合が多いでしょう。
それでも相手が受け入れない場合、納得しない場合はあります。そのときは医師たちが体に行うように、そういう心・感情をしばらく放置します。放置しますが、見捨てるのではなく、落ち着いて、彼らの悩み苦しみがなくなりますように(悲)、と願い、見守りつつ。
仏教で四つの無量にまで大きくできる心・慈悲喜捨の悲の心というものがあります。自分や相手や一切衆生の幸福を願うのが慈、悩み苦しみが癒えるのを願うのが悲、回復したりして喜んでいたら一緒に喜ぶのが喜、どんな時も落ち着いて冷静でいられるのが捨です。
医療の達人は、熱く頑張るのではなく(それだと燃え尽きるかも)、冷静に落ち着いて、人間ってそういうものという気持ちで頑張っているのではないでしょうか。どうか一つ一つの事例に深入りしないように、撒き散らされても受け流しながら、冷静な慈悲喜捨の気持ちでお仕事をお続けくださいますように。
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
人間ってめんどくさいなと思うたびに、そんなことを思っている自分が嫌でした。しかし、お話の中で発見された真理という言葉を見て、悪い考え方ではないのだと知り少し安心しました!
本当にありがとうございました!