業と時代変化について
業 というものについて、疑問があるので質問させていただきたいです。
よく業という言葉が使われる場面は、「あの人はあんな事をしたんだから、自業自得だ」といったものかと思います。
ある事をするとある事が返ってくる、というざっくりとした理解をしているのですが、これが倫理観と絡むと難しいと感じます。
先日、以下のような記事を読みました。
「浮気や不倫は人を傷つけることになる。これは業だから、やがて浮気や不倫をした本人達を苦しめる結果になる」
現代の倫理観に照らせば、確かに浮気や不倫などは傷つく人を生みますし、社会的にも良くないとされています。私個人も不誠実で嫌な行為だ、と感じます。
しかし、例えば妾が社会的に許されていた時代には、今よりはるかに愛人さんや不倫があったと思うのです。それが甲斐性だと思われていたこともあったと聞き、では当時であったなら浮気や不倫は今のような業ではないのだろうかと感じました。或いは、業だらけということになってしまうのではないかと感じました。社会的に苦しい立場の人々を保護した一面もあったのでしょうが、慈悲の心だけという訳でもないケースもあったでしょうし、当時でも悲しむ人もいたのではないかと思ってしまうからです。
業とは、時代の変化に合わせて、(人が傷つくものに合わせて?)変化するものなのでしょうか。
それとも、普遍のポイントとなるものがあるのでしょうか。
業というものについての難しさを理解してみたいと思い、質問させていただきました。
理解が大幅にずれていたらすみません。
回答のご検討をよろしくお願いいたします。
インターネットで調べものをしだすと長時間経ってしまう お布団が大好き
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お坊さんが困る話題
来ましたねぇ…これ、非常に回答し辛いのですよ。理由は極めてデリケートな話題だから。オウム真理教が殺人やテロを正当化した思想も、他ならぬ業と善悪の曲解です。これだけは中途半端に首を突っ込まれると本当にマズイです。
まつさまのご理解が無難であったとしても、この質疑を読んだ人が話題を飛躍させてしまうと社会問題になりかねないものです。話を発展させないようご協力をお願い申し上げます。
また、仏教内でも業の解釈はバリエーションがありますのでご了承ください。
さて、業には悪い業もあれば善い業もあります。業イコール悪というイメージは霊感商法やスピリチュアル、カルトからきたものでしょう。脅して不安にしてから高額な解決法を売りつける手法に利用されます。そもそも引用文が正統派仏教の出典であるか疑問符がつきます。
仏教の業とは行為そのものや、その影響力、そしてそこから形作られた習慣のことです。
そしていつも「お先にどうぞ」と譲っていたら、譲らないとムズムズする自分になる…いつも「我先に」と争っていたら、一番にならないと損した気分になる自分になる…こういうのが自業自得です。いわゆる「バチが当たる」というのは子供のしつけのようなシーンで使われる慣用句です。
あくまで「行為はその場限りではなく、余波のような影響がある」と言っているだけですので、時代で変化する善悪とは関係ないのですよ。
なお、仏教でいう善悪とは倫理的な善悪や正義とは別物で、悟りに近づくものが善、苦の原因になるものが悪です。
不倫の場合でいうと、不倫の根底にある愛着が苦の原因だから愚か。邪悪というより苦の原因だから愚かというニュアンスです。自分も不倫相手も結婚相手も子供も芋づる式に、よりにもよって…という形で愛着を刺激されます。しかも不倫すると辛いと分かっているのに止められない自分になる…不倫は愛着の濫用。
仏教は「愛着の濫用は誰も得をしないよ、誠実に生きたほうが楽だよ」と説くだけです。
最後に仏教とは関係ありませんが、戦国時代でも「秀吉の不倫が酷い」と妻のねねが信長に直訴し、信長が秀吉を厳しく叱りつけておくから安心してくれと返事をしています。一夫多妻の社会の中でも社会の目的のための一夫多妻と、妻を裏切る不倫が別物とされていたことがうかがえます。
縁とセットで
こんにちは。私はこの手の話は余り得意ではないので、感覚的な理屈ですみませんが、私の理解を述べます。
まずは業という言葉ですが、これはまず善悪価値のつかない「行為」を指します。良く因果応報のことを質問される方がありますが、「良い業が良い果をうみ、悪い業が悪い果に繋がる」というのが元の意味で、一般的にイメージされているのはその後半だけである、ということはまずご承知おきください。
つまり、行為自体がどう評価されるか、によって、果の評価も変わってくるのです。
そこに作用するのが「縁」です。同じ行為=業であっても、異なる結果が出るのは縁による、という訳です。
「君のことが好きです」と言う。これは業です。しかし、その結果がどう出るかは、その発せられた状況による訳です。相手とかタイミングとかまわりの状況とか。「あんな時に、あんな場所で言うなんて…」とか「あの言い方じゃねぇ」とか。
ということは、あなたのおっしゃる「時代の変化」とは、まさに縁の代表的なものです。あなたの発想で難しいところは、「妾が社会的に許されていた」という大枠でありながら、「不倫・浮気」という現代日本の価値観でそれを評価していることです。物理的にしている行為は同じかも知れない。けれど社会的文脈(縁)が異なれば、評価(果)は変わるのです。
アフリカかどこかでは、今でも夫を亡くした女性を、その夫の兄弟が妻として迎える社会があると聞いたことがあります。それは彼女の救済の1つでしょう。しかし、自分の夫に万一のことがあっても、今度は自分のセーフティネットになる可能性があるのです。ですから、現代日本の感覚でその未亡人を受け入れることを評価するのは慎重でなければいけないと思います。
仏教の面白いところは、この「縁の重視」であると思います。原因となる業があったとしても、縁をやりくりすることで、その種を開花させない可能性があるということです。もっともそれは、「自分にどす黒い欲望があるけれど、それをよくしつけて飼いならす」というニュアンスですけれど。
ともあれ、いろんなお坊さんがお答えくださると思いますので、思索を深めていって下さい。
質問者からのお礼
大慈様、佐藤様
非常に丁寧な回答をありがとうございます。
引用元はかなりスピリチュアルな世界にも増資の深い方の書かれた記事でしたので、やはり仏教の、宗派も様々ある中での質問にするには浅薄だったかも知れません。またかつての事件とも関わりがあったとは知らず、デリケートな質問をしてしまいご迷惑をおかけしました。それでも慎重なご回答をいただき、ありがとうございます。
善悪の捉え方も、自分自身の心がどう感じるかを重視した考え方なのですね。
業というのはあくまでも自分自身をより健やかに生きるため、自分のための指標のような使い方の方が大事にならないのかもしれないと感じました。
業という言葉自体の、仏教における意味と一般的な使われ方は必ずしも合致しないこともわかりました。
そして縁もキーポイントになってくるのですね。目から鱗でした。人の世の中の成り立ちを見たような気分です。
また、いただいた回答を読んでいて仏教は医療的な要素があったと大学時代に教わったことを思い出しました。その人が生きる時代の中で自身がより清々しく生きる為に何が出来るか、業もその為に自身の中でポジティブに活用していければいいものであるかな、と思いました。人に押し付けたり、偏った正義として掲げるものではないのですね。
再度いただいた回答を読み返し、業だけでなく仏教そのものへの理解を今後も深めたいと思います。
改めてありがとうございました。