過ちの多い人生、老いて今後どう生きる?
人生の半ばを過ぎました。
思えば、過ちも恥も苦しみも多い人生でした。
そう意図したわけではありませんが、生きているだけで周囲や人様に迷惑をかけてしまいます。
子どもの頃から疎外感、自分という存在への違和感が強かったです。
不器用で運動神経が極端に鈍く、パニックになりやすい子どもでした。
普段は大人しかったので極端に目立ちはしませんでしたが、
子どもというのはそういう異質なものに敏感なので、小学生の頃はいじめられっ子。それからは普通に見えるよう、うまく立ち回る方法を何とか見つけようと努力するのが人生の第一義になりました。
大人になるとますます社会に適合するのが難しくなりましたが、
何とか職場では誤魔化したり繕ったりしながら潜り抜けてきました。
とんでもないヘマや判断ミス、ちょっと人に言えないような過ちも多かったです。
ただ一つ、自分でも賢明だったと思うのは、結婚も出産もしなかったことで、
親には申し訳ないですが、不幸の連鎖や再生産にならずによかったと思います。
今は孤独で、荒涼とした世界の一人ぼっちでいるような気持ちです。
普通の人間に生まれたかったし、普通の人のようにに生きたかった。
周囲の、同じような社会からはみ出したような生きづらい人たちは、
30代ぐらいで自死された方が多いです。
それぐらいが限界なのかもしれません。
しかし、私は小狡く生き延びてしまいました。今となってはそういう方たちの方が「正解」だったのかも。
もう今さら過ちを償う方法もなく、人生をやり直せる年齢ではなく、苦しみと孤独は深まるばかり。しかし、これも因果応報として受け入れるべきなのでしょう。
老いていくこれからは、ますます厳しい人生となるでしょう。
このまま無明に生きて、無明の中で死ぬしかないのでしょうか。
ないのでしょうね。
もうこれ以上人様に迷惑をかけないように、世捨て人のように生きるのが一番なのかとも思います。
こんな愚かな人生にも意味はあるのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それ程苦しいのに“生きられた”感謝はありますか
かつて人間は強靭な肉体と精神を持っている人しか生き残れませんでした。
石と木で作られた粗末な武器で猛獣を倒せる者しか生きる資格がなかったのです。
現在、私たちが生きている空間にいるのはせいぜい不快な虫くらいのもので、命を脅かすものは存在しません。
私自身もおなかが弱く、すぐ下すのできれいなお水が飲めなければ30を前に死んでいたかもしれません。
私もあなたも、現代でなければ、人間でなければ“生きる”という選択肢を与えられなかったかもしれないのです。
食事が出来るということに、安全に眠れるということに、死ななくてもよいということに、私たちはもっと感謝してもよいのではないでしょうか?
生きることが当たり前すぎて、“死”がどれほど苦しく、辛いものかを忘れてはいませんか?
あなたは辛い人生を送ったかもしれない。
今までしんどい思い出が多いかもしれない。
でも、一番苦しい“生きられない”という道を選ばなくてよかったと噛み締めるべきです。
死んだ者の感想を聞くことはできません。
『死ななきゃよかった』という声は、絶対に聞くことができないのです。
取り返しのつかない選択を急がず、今できることを考える。
そうして生きていくしか、私たちにできることなどないのです。
質問者からのお礼
啓誠様、お言葉ありがとうございます。
確かに、少し前ならもっと生きにくかったでしょうし、さらに前なら、私など早々に淘汰されていたでしょう。
この時代にこの世に生まれてきたのは偶然か必然か。
こんな歪な自分に生まれたのは、偶然ならガチャみたいなもので
必然なら何の因果でしょうか。
何とか社会に適応することを目的に、
普通の幸せを得るには難しいとしても、人生に一片の明るさを求めて生きてきました。
しかし、結局難しかったです。
努力不足か見当違いの努力だったのか。
おっしゃられる通り、死んでいった人はもう何も語ることはないし、
どう思って亡くなっていったのか知る術はないですね。
すべては虚しいですね。
ここまで来たら諦めて受け入れる、ということが肝心なのでしょうか。
お腹お大切に。
ありがとうございました。