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お坊さんの好きな言葉は?

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こんにちは。お坊さんが好きな言葉、大切にしてる言葉はありますか??
禅の言葉などは意味も教えてもらえるとありがたいです。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

場面によってそれぞれありますね

『清濁併せ呑む』
『君子豹変す』

この二つですね。
共に中国故事にルーツがあり、
『清濁併せ吞む』には“良いことも悪いことも受け入れる度量がある”
『君子豹変す』には“優れた人は、過ちを認めすぐに変化する”
という意味があります。
これを意識して日々の生活を送っています。

日蓮宗を開かれた日蓮大聖人は100通を超えるお手紙・自著が残っていますが、その中でも
『我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん』
“私が日本を支え、日本の行き先を見つめ、皆を導く”

『我が頭は父母の頭 我が足は父母の足 我が十指は父母の十指 我が口は父母の口なり』
“我々の体は全て両親からもらったものだ”

『夜は眠りを断ち 昼は暇を止め 之(仏法)を論ぜよ。一生虚しく過ごして万歳悔いることなかれ』
“我が弟子なら夜も昼も、とにかく仏法つまり、どう生きるかを考えなさい。一生虚しく過ごしてすべての時間を後悔しないように生きなさい”

など、好きな言葉がたくさんあります。

その中でも一番好きなのは
『矢のはしることは弓の力』です。
この言葉は『雲の行くことは龍の力 男の仕業は女の力なり』と続きます。
どれだけ硬く鋭い矢を持っていても、弓がなければ遠くに届くことはありません。
同じように、どのような男の業績も功績も、名誉も、後ろに女性の力が必ずあるんですよ。という言葉です。
私も最近はこの言葉を、常に胸に留めてます。

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おきもち

日蓮宗の僧侶、啓誠(けいじょう)と申します。 修行に失敗し、一度は腐り切ったり、同僚とぶつかったり、挫折挫折の仏道人生を歩んでおります。 だからこそわかる、答えられることがきっとあると思ってHasunohaに戻ってまいりました。 精一杯、皆様のお役に立てるよう頑張ります。

ていちんとんりゃんていちんとん

風鈴の偈というものがあります。
道元禅師の師匠の如浄禅師の作で、道元禅師がこの句に出会った時に感激してその内容のすばらしさに礼拝し、如浄禅師にその内容について申し上げたところ、
この句の真意を会得したのはアンタが初めてだと褒められたそうです。仏法の真意、自己の真相、悟りの内容を端的に説いておられる素晴らしい句です。

🎐 風鈴の偈 🎐
「渾身口に似て虚空に掛かる
 東西南北の風を問わず
 一等他が為に般若を断ず
 滴丁東了滴丁東 」

渾身(こんしん=全身)口に似て虚空(こくう)に掛(か)かる
東西南北の風を問わず
一等に他が為(ため)に般若(はんにゃ)を談ず
滴丁東了滴丁東(チチンツンリャンチチンツン)。

覚元ヘタレ訳
仏法の極意とは自己の真相を明らめる事である。
自己の真相とはこの風鈴のように、わが身の赴くところ過去現在未来、いつでもどこでも一切世界が虚空なる大きな法の世界。その虚空にわがみもちょこなんと存在して一切のことを授かっている。
東西南北、この眼耳鼻舌身心の窓、門を通して、さまざまな風が入り来たり、来たるがごとく去るがごとくに透過している。
そこになにの伴いも無く、さわりがない。そこに何の苦楽もなく、生老病死も貪瞋痴もない。
ただ、そのことが起こるばかり、享受されるばかり。
その風という名のこと、もの。
そして、わが身の響き。感受。享受。さずかり。
そこには我がなく、我という意識すらともなわない。
何とこの上ない絶妙な法の音、法の響きであるか、今みなさんが触れていることの中でさぁ、感じよ、打ち鳴らされていることをみよ。
それこそが成仏のすがたであり、仏、法の真相であり、全人類、すべての人間のいつでもどこでも誰でもの真実の様子であり、仏教の救済の内容そのものであり、無上の菩提、阿耨多羅三藐三菩提の成就されたる様相そのものである。
さぁ、いま、そこで、まさに我々の身心に鳴り響く法の音、法悦に身を任せよう。
カッチ、カッチ、カッチ…⏱
☂サァーーーーー…
🚃カタンコトン カタンコトン…
👂♪~ 

最後のテイチントンチャンテイチントンとは、今、私たちがさずかっていることの内容。
般若心経の真言であるギャーテーギャーテーと同じように、訳すことではなく、体感されていることそのものです。
この句に参じられ仏祖と同じく自己の真相を明らめられますように。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

諸法無我

仏教の基本中の基本である「三法印」に、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と言う御文がございます。中でも「諸法無我」は「本当は“私”と言う自我は存在しないんですよ(つまり無我)なんですよ。。」と仏教の定義の一つになっている事です。普段我々は“私”と言う自我を中心に物事を考えがちです。でも改めて「諸法無我」という教えを色んな角度からご自身の生活に照らし合わせて見て下さい。貴方なりの理解や気付きが出来て来ると思います。私自身も「諸法無我」という教えに向き合って行く一生ではないかと思っております。 私のつたない説明では分かりにくいかも知れませんが、ぜひ機会あれば調べてみて下さい。 合掌

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有り難し
おきもち

東京在住の浄土真宗本願寺派の僧侶・前住職です。仏教は、私たち生きとし生ける者すべてが「仏になる」(お悟りをひらく)教えです。一般の方にもわかり易いように答えて参りたいと思います。合掌

質問者からのお礼

お坊さんの皆さん回答ありがとうございます🙏

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ