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知識と智慧

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よろしくお願いします。
いつも坊様の説法を拝読し勉強になっていますが、学んだことを理解し知識として頭に蓄えてるだけであって、私自身が何も変わっていない。所謂、行動が伴っていない状況です。
私の解釈ですが、知識=頭の理解 智慧=心の理解 心=価値観、判断基準だと捉えています。(間違っていたら指摘してください)
私の事例ですが、知識は豊富になればなるほど、俺は賢くなったと勘違いして(仏教的に理解していない)他者を見下したり批判し攻撃をする道具に成り下がってしまいます。それによって人間関係が悪くなったりもしました。
その貴重な知識を自分自身に向けて体験的に理解をすることで智慧に変換できると思うのです。実践することは、とても難しいことですが。その正しい智慧によって価値観や判断基準が変わり行動することによって人生が良くなると思うのですが、その知識から智慧に変換する方法が分からないのです。解りずらい文章で、すいません。坊様はどのように実践されてますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心のない知識や教育はズル賢いエゴイストを生む可能性もある

知識とは頭で会得した情報。
智恵という場合は会得された体験と言っても良いでしょう
智慧という場合は身心の上に「わたくし意識」が離れ切った様子を言うのです。智慧とは知識の増減や有無にかかわらず、わたくし意識が丁寧に静まっている状態なのです。
ガツガツしたエゴ、オレオレしたエゴの状態はアンチ智慧なる状態です。
智慧とは我・わたくし心のなきこと。智慧とは般若。般若とはわたくし意識、自我・エゴ・ガツガツしたわたくし意識のない様子なのです。これは仏教聖典などにはきづきとか目覚めと訳されることもあるようですが、本来の様子はこの身心に「自分というエゴ的な主体性を認める心」のない様子を智慧というのです。
それは仏教経典や仏教書に求めるものではなく、坐禅、禅定、心の能動意識をおさめて行く中ではっきりする内容です。

知識が豊富になるということも「豊富」ということの内容を追求するべきです。ただ情報量が増えるだけで豊富というよりも、ただ漠然と大量にあるばかりです。
人間性も豊かになってこそ、その知識が世の中、自他ともにすくわれるようになるはずです。沢山の土地を持っている、畑を持っていると言っても、農作物が育たなければ豊富とは言えませんし、沢山持っていてもそれが広く廻らされることがなければ、自分も他人も真に豊かになったとは言えません。
知識は知識。情報。
智恵は智恵。体験。活用法。
ですが智慧は般若ですので、私なき事。
ただ古木のように私がないという程度であれば冷たい人です。
だからこそ、そこに菩提心や慈悲心が無ければ血の通った仏の教えとはならないのです。
世界には私ごときの一本足りない丹下凡下よりもさらに豊富な知識をお持ちの僧侶たちもたくさんおられます。
ですが、薬もワクチンも知識も智恵も救いの作用として用いられることがなければ宝の持ち腐れとなります。
菩提心とは救いの作用となるように心を費やして活路や導き先を見出してより良い方向へめぐらし向ける精神でもあります。
お釈迦さまも悟りを得られて山にこもってそのまま一生を過ごされようと思われたそうですが、梵天勧請という自身の内なる善導精神のはたらき(神とはその象徴)によって、この功徳を広く衆生にめぐらし向けることを決意されました。
あなたもその精神があるはずです。自他を救うべく良いカタチに咀嚼して多くの人々を救いへと導いて差し上げてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様、ありがとうございます。
何度も読み返しました。
私の行動を振り返ると、やはり自我に囚われていたと思います。我を無くし利他の精神であることが菩提心(智慧)ということでしょうか?智慧の概念を履き違えていたかもしれません。智恵と智慧は全く違った意味なのですね。日常生活をしていく中で実践は難しいと思いますが利他を意識して精進します。ありがとうございます。

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