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いい諦めと悪い諦め

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有り難し有り難し 16

お読みいただき、ありがとうございます。
人間誰しも大なり小なり、後悔はあるかと思います。私もいろいろ後悔があり、何年も、下手したら10年、20年前のことでもあの時アレがなかったら…、あの人がいなければ…、もっとあの時にあぁしておけば今頃は…、と未だによくクヨクヨと後悔する時があります。そしてそれをなんとか取り返す術はないかとどうしようもないことを考えてしまう時があります。
ただ、なぜか今日ふと突然「違う…『あの時アレがなければ、こうしていれば』とか『もっと今頃はこうなっていたはず』というのは自分はもっとこうであるはずなのに、という歪んだプライド、驕りの妄想でしかない。確かに「俺のせいではない」「なんで俺だけ」と言いたくなる出来事もあったかもしれない。でもその出来事に対する反応も含め、他の人なら違う行動が取れたかもしれない。結局は自分の器が自分があると信じて疑わなかったよりもずっと小さかった、ただそれだけのこと。」という考えがスッと頭に入ってきました。
そう考えると諦め(仏教的には明らめというのかもしれません)の気持ちというか、もうそんなに頑張らなくてもいい、人から見たら惨めな失敗の人生かもしれないけど、足るを知るで手に入ったものに感謝して、満足して、楽しく暮らしていけばいい、と思う一方で、やはり自分を、自分の可能性を信じることをやめた悔しさ、寂しさを感じるというか、そのような気持ちで生きていくと、いつか人生の終わりを迎える時に「なぜ俺は自分を信じて、少しでも挽回出来るようにと頑張らなかったんだろう」と自分の人生の時間の使い方を悔やむような気持ちを持ってしまいそうな気もしています。
そこでお聞きしたいのですが、仏教的な視点からいうと、いい諦めと悪い諦めってあるのでしょうか?違いはどのように考えたらいいのでしょうか?これが絶対正解、というのはないと思いますが、仏教ではこんな話がある、といったものでも、お聞かせいただけると幸いです。

2022年5月26日 23:21

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

良い諦めと悪い諦めを超えた確かな道理の諦めが正しい諦めです

真の価値観をもつ。
たとえば事実の上に人間の善悪なんてものがあるでしょうか。ない。
良い悪いや是非は人間が後からやることです。
埼玉では朝方はドシャブリでしたが、今はギラギラな晴れ天気。
天気一つでも人間の見解を立てれば、朝は雨で車の運転に支障がある、傘が必要になる、濡れて困る、いろいろあるものです。
晴れたら、洗濯物が干せる、アツい、まぶしい、傘が不要、いろいろあるものです。
諦めとは人間の善悪基準ではなく、その事実を正しく明らかにすること。真の価値を悟ること。ものの道理、確かな道理、真実のことわりを正しく明らかにすることです。真実の価値にはそこに良いも悪いも優れているも劣っているもないのです。
そういう真価を求めるとよいでしょう。
それは人の見解を先んじないこと。人間の安い価値観を先立てないということ。
たとえば100億円以上お金を持っている人でも、そのお金の使い方がその人の真の人間性。日本でぼろ儲けしつつ日本人への人種差別や貶め活動をしている人もいます。真の価値、真の成功とは何か。
後悔も良い後悔、悪い後悔なんてものはない。後悔という行為自体がネガティブで悲観的で今更感たっぷり。悪いことでしかありません。ですが、その後悔から「自分はいつまでこんな後ろ向きな愚かなことを継続して今日という新しい一日を無駄にしているのか?」と愚かさを弁えれば、確かな価値が生まれて二度と後悔なんぞに無駄な時間をかけなくなる。諦め。
過去は取り返しがつかない。今自分はこの今を生きている以上は取り返せない。無駄なことをいくらやっても年を重ねていくだけであると確かな諦めがつく。諦め。
つまり、本当の価値の目覚めが起こらないからいつまでも「あの時ああしておけばよかった」と自分を蹴落とすような低い評価をくだす心理が生じる。本当の価値を求めれば、後悔もしない。自分をいつまでも鞭打ち続けるような精神自傷行為もやらなくなる。つまり求めている宝の価値が低いということなのです。
あの時、自分の可能性を信じてそれをやった結果、何を生み出せたか?今どうしてそれをしないのか?その評価の基準や心理自体が損得勘定や勝ち負け、得失の心理がベースにある。世間では音楽も映画もなんちゃら賞も根回し、ロビー活動で勝ち取れる。本当に優れた人が評価されず、ずるがしこい人が勝ってしまう時代。もっと高い価値を求めるべきです。諦め。

2022年5月27日 15:58
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
御回答ありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。
おっしゃる通り、損得勘定や勝ち負け、得失の心理に振り回されてしまっているのだと思います。そんなレベルの低い次元を超越した価値を見つけ、維持することが望ましいのだとは思いますが…言うは易し、行うは難しでなかなか難しいですね。俗世の中で生き抜くためには、人の目や評価を一切気にしないというのもなかなか困難な気はします。
ただおっしゃる通り、過去を後悔しても今という時間が無為に過ぎ去るだけですので、過去をあぁだこぅだ評価して是非の判断や後悔の感情を持つことだけは少なくとももうやめようと思います。

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