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1人の楽しみ方を知りたいです。

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有り難し有り難し 28

大人になってからも寂しいです。
やろうと思えば大体のことは1人でできると思うようになりました。
1人で海外旅行もいければ、網戸だって直せる、レストランの料理に近いものだって作れると思いました。
でも、そんなことできても1人だと思えば寂しいです。
色んな隣の芝生はとても青くみえます。

仕事や、勉強も、なんでも、1人でやっていると無意味に思える瞬間があります。

けれど、私の周りの人達は1人で黙々と仕事をこなして、夜遅くまで勉強して、人付き合いも無難そうに楽しめてて、凄いと思うし尊敬するなって思います。(お医者さんが多いです。)
無我の境地というものに憧れます。
先生方みたいに、純粋に仕事や勉強、毎日の些細な事を楽しめたら良いのになーって。
人といなくても、自分の時間があれば満足、というような生き方に憧れています。
そしたらきっと寂しくないのかなと。

何か参考になる話や考え方がありましたらおしえて頂きたいです。

2022年6月1日 11:25

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

宝蔵おのずから開いて受用如意ならん(道元禅師)

まず「人間は一生涯、自分の事しかない。」としっておきましょう。
これは誤解しないように以下のAとBとでその違いを解説しておきます。

A(間違い)人は一生自分の事しかない。
だから身勝手に自分の事だけやっていればよい。

B(正しい)人は一生、この自己の身心の上に行われることしかない。人と接することもわが身を通して行われること。いつでもどこでも我がこと。相手から言われることもわが身に行われること。

よって、人は一生、自分の事しかないという道理が成り立つのです。
唯心造と言ってもいいでしょう。
わが身が世界のディスプレイと言ってもいいでしょう。
貴女が寂しいという心情を起こされるのは真実でしょうが、人間は大きな視点から見れば一生涯、たった一人、一箇の生命の活動体なのです。
その活動の究極の静まりという所を一度でも体験すれば孤独は滅することができます。
わたしも大学時代、仏教に出会う前は一人暮らしでいつも孤独でコタツといいちことギターと天下一品だけが友達でした。彼らは裏切ることもありません。求めれば必ず求めた手ごたえを返してくれます。(笑)
人間の究極の静まりを体感するためには坐禅がもっとも良いでしょう。
で、静まってどうなのかと言いますと、自己の身心、五感六感の感覚・感受作用が開かれ、授かること受け取ることが快適・心地よいことしかありませんから生きるのに安楽なることこのうえなし。
自らの宝の蔵が開かれて、受け取ること、もちいるにも自由自在。意の如し。
そもそもこの身心は生きているだけでも丸儲けでございますが、触れる事、出会うことにケチやイチャモンをつけることがなくなります。
物事を受け取るのに伴いごとが無くなるからです。
アナタは今、生きていることに孤独だ孤独だ、寂しいという意識をさしはさんでおられます。そういうことすらも無くなるのです。
天にかかるこいのぼりが大きな口を開けて宝物を宇部手の見込んで残り物が何もないようなものでございます。🎏くぇー>゜)))彡✨
人間は生まれながらに底の抜けた宝箱、福袋。
何をどれだけ入れても授かるに無限大。日日これ「ごちそうさまでし体」なのです。

2022年6月1日 16:15
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

見守っています

拝読させて頂きました。
独りであったとしても必ず誰かが見守っていて下さいます。あなたが何かに没頭している時でも、旅先で列車に揺られている時でも、ゆっくり温泉に入っている時でも、神仏やご先祖様にお参りなさっておられる時でも、一生懸命に仕事に集中している時であっても必ずその近くには誰かが寄り添っていて下さいます。そんな気配をあなたは感じることもあるかもしれませんし、熱中していて何も感じないかもしれません。
ですがあなたのそばには誰かがあたたかくあなたの姿を見守っているのです。或いは誰かがあなたに声をかけてくるかもしれませんし、そこから新たな出会いが生まれていくこともあるでしょう。
旅先で出会ったご縁もとても素敵です、美しい自然に囲まれて新緑があなたに微笑んで下さることもあるでしょう。
あなたがこれからの未来を多くの方々にあたたかく見守られながら素敵な出会いや出来事に恵まれて心豊かにおおらかに生きていかれます様に心から祈っています。

2022年6月2日 10:33
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

丹下 覚元様

お返事ありがとうございます。
早速座禅を、実践をしてみましたが、なかなか難しいものですね。
ただ、少しだけでも気持ちいいと思いました。
素敵なお言葉もありがとうございます。
自分にとって、素敵な言葉は寂しさを埋めてくれる大事なものです。
ゆっくりと見返して、ゆっくり受け取りたいと思います。

Kousyo Kuuyo Azuma様
お優しいお言葉をありがとうございます。
昨日早速寂しい、と思い、酷く落ち込むことがありました。
けれど、そんなこと、何も知らない友達が呑気に話しかけてくれました。
こういうことなのかな、と少し思ったりしました。
寂しいという気持ちを飼い慣らすのはとても難しいです。でも、ちょっと頑張れたらと思います。

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