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汚い私の心

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

転職活動を3年ほど前からしておりますが、はっきり言ってうまくいっておりません。
サイトから求人に関して質問しても企業から無視。
エントリーしても無視。
書類選考を通過し、面接に呼ばれたらボロクソ言われます。女だから、そんな技術、コロナの濃厚接触者になっても仕事にこい、雨が降っても傘をさしての出社はならん、などです。
そんな会社は入社しなくて正解。そうは思うのですが、心からは思えず悔しさや情けなさ、将来への不安が渦巻きます。
そんな中、ボロクソ言い放った会社のうちの1社が自己破産したと新聞で知りました。その会社に対する正直な気持ちは、
「ざまぁみろ」
それが私の本音です。
これは汚れた心の私だからそう思うのだと思います。
お坊さんは、やはり修行していらっしゃるので、そんなふうには思いませんよね?
普通は、さらっと「そんな会社に入らなくて良かった」くらいで気持ちは治まるものでしょうか?

文章があまりうまくなく、読みにくいところがあるかと思います。
申し訳ございません。
お忙しい中、大変恐縮ですがご回答をいただけましたら幸いに存じます。
よろしくお願い致します。

2022年6月5日 13:38

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ざまぁみろ心理は自然のはたらき ただし 下品にならぬよう

酷いことをされた、人間以下の扱いをされた、絵に描いたような天罰めいた社会のさばきが下った。普通の人はみんなざまぁみろとか胸のつかえがスッとしたとか、スカッとジャパンみたいな気持ちになって普通だと思います。
スカッとした。
スッキリ した。
溜飲が下がったというだけで、下品なテンションで\(゜ロ\)(/ロ゜)/ざまぁみろとかしなければいいんじゃないでしょうか。ある種の人たちはサッカーの試合で勝ってトロフィーを踏みつけたりとか、日本の震災をお祝いしますとか横断幕まで掲げていますが、そういうのを汚いというのではないかと思いますが。
ましてや、あなたは雨降っても傘も差してくるなという非道な扱いを受けてきたわけでしょう。そういうブラック企業はつぶれて然るべきかと思いますよ。
ただ人間、品位というものがありますからみんな内心思っていても言葉に出さないとか表に出さないというだけの事でしょう。
汚い私の心というタイトルですが、本心を隠している人たちの方が私は個人的に汚いと思いますが。(笑)
単純に上品なウソツキというだけ。あるいは回りに合わせて自分の本心に素直になれない大衆迎合心理だったり、日本人特有の集団性同調バイアス的なフリーズ心理がほとんどじゃないでしょうか。別にザマァ見ろと言わなくていいだけではないでしょうか。
自分を卑下しすぎるのも迷いのはたらきの一種です。
うそつきな人が多い世の中。そして嘘つきさんが優位に立ってマウントを取ってくる世の中です。何でもかんでも迎合、ペコペコ、大人しいというのはむしろ愚かですから、冗談じゃない。ふざけるのもいい加減にしてください(# ゚Д゚)という義憤や公憤の心は持っていて当然です。
仏教業界では人権分野に人権を悪用して利権を得ようとするようなずるがしこい活動家もいます。そういう悪意にある種の坊さんは文字通り知らぬが仏で彼らのいう被害者主張にペコペコして騙されていますが、そんな悪意を正しいとか弱者と認めたら僧侶たちが間接的に悪事に加担させられているという図式なわけです。
そういう悪意を打破して、健全な人間性に導くことが本来の仏教精神でしょうから私はあなたのその素直な心情は汚れているとはこれっぽっちも思いませんが。
むしろ、上品ぶって何されても怒ってはいけないと誤解して大事な所を全部奪われているスキだらけな坊さんのほうが痛々しいと思います。

2022年6月5日 15:31
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
お忙しい中、ご回答をいただき有難うございます。
ボロクソ言われるたび、マウントとられまくりの連続から自分に自信がなくなり、卑下しまくりでした。ちょっと就活から離れて一旦リセットしようかとも思いました。
また「品位」という言葉に何だか上手く言葉にできませんがピンときました。品位をもって思うのは思っていいんだ、スカッとしていいんだ、そう思いました。
リセットしたらまた就活しますが、いつか会社に入社した時、いつの間にか「あちら側」にならないように気をつけたいと思います。
有難うございました。

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