娘の死
以前も質問させていただきました。
娘を亡くしましてから、もうすぐ四十九日を迎えます。
まだまだ深い悲しみと会いたいと言う気持ちといろいろな事を思い出すと胸が張り裂けそうで、夜はなかなか眠れません。
私に今出来ることはお花とお経と朝昼晩の食事を作ること。
娘は食べることが大好きだったので、一緒に3食、遺影に話かけながら、食べています。
2年近くの闘病でしたので、いつも一緒に過ごしていました。思い出す事がいっぱいで、家のどこに行っても娘の姿を思い出し泣けて泣けて会いたくて会いたくて仕方がありません。
後悔している事もいっぱいあります。
娘は最後あまり意識のない中、アイスクリームを欲しがったのですが、夜中ということもあり、ひどい下痢もしていましたので、朝まで待つように言ってしまったのです。
朝になり、アイス食べてもいいよと言うと、やったー!って。
私は自分の眠たさも理由にしていたのだと今になってものすごく可愛そうな思いをさせた事が毎日毎日考えてしまいます。
そして、最後の顎から呼吸するようになって3日ほど経った時、もう天国へ逝かせてやりたいと思ってしまいました
看護師さんの話しでは顎呼吸になると間もなくなのに、娘さん頑張って見えますと言われたのに、楽にしてやってほしいと。
尿の量を毎日計ってノートにつけて、あれだけ気にしてなんとか尿が出ますようにと必死になっていたのに、尿が出なくなってももう諦めた私がいました。
こんなに最後まで頑張ったのに、こんな私を娘は許してくれるでしょうか?
いつも目が閉じられなく空いたままの状態は何か言いたかったのでしょうか?
亡くなるほんの5秒くらいは目を閉じれましたが、亡くなってから次の日のお化粧をしてもらうまでは亡くなっても目を空いていました。
これは何を意味するのでしょうか?
そして、私は娘の思い出を処分することも見ることも辛いのですが、どうしたら良いでしょうか?
とにかく元気で明るい娘で弱音も吐かず頑張りました。
最後の2週間は主人と3人で一緒に24時間過ごす事ができました。
娘は幸せだったと思ってくれているでしょうか?
他にもっと出来ることがあったのではと、悔やまれてなりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
感謝の気持ちを伝えている
ちーたん 様
まずは、お嬢様のこと、お悔やみ申し上げますとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌礼拝
お亡くなりになった後、目が開いたままというのは珍しいことではないようです。瞳孔が開き、水分が抜けていくと開くことがあるそうなので、気になさらない方がよいと思います。
お嬢様は、顎呼吸で頑張っておられたのですね。おそらく感謝の気持ちを伝えようとしたのではと思います。「お母さん、お父さん、ありがとう。お母さんとお父さんの娘で良かったよ」って。「アイスクリームもとってもおいしかったよ、嬉しかったよ」って。
色々後悔をされているようですが、お嬢様は、ご両親の愛と優しさと思いやりを受け取って、今は笑顔でいらっしゃるんじゃないかなと思います。目には見えませんがおそらく、傍にいるんじゃないかなと思います。笑顔で手を振っているかもしれませんね。
思い出は、たくさん思い出してあげてください。心の負担にならない程度に。そして泣きたいときは思いっきり泣き、楽しい思い出の時は笑い、感情をご主人とともに出し合ってください。感情に蓋をするより出し合って、出し切ったら、なぜか「娘でいてくれてありがとう」という気持ちにが増していくと私は思っています。
ですので、思い出の処分は、気持ちが揺れているときには判断しない方がよいと思います。時間がかかるかもしれませんが、そのうちどうするのか出来る時が来ると思います。
そして、出来なかったことに目を向けるのではなく、些細なことでもいいので出来たことに目を向けて、お母様やお父様から優しさや思いやりや温かさや愛情を受け取り精一杯生ききって命を輝かせたお嬢様から、こんどはあなたが笑顔や優しさを受け取ってください。家族で伝わる心の温かさや優しさや愛情は、今は目に見えなくても続くものだと私は思っています。
四十九日が近いとのこと、気持ちの整理がつかなくても構いません、それでも感謝や「ありがとう」は響いていくでしょう。
私にはお嬢様が家族の愛で輝いているように思います。
再拝
追伸:お礼メッセージありがとうございました。自分を駄目な親と責めないでください。誰だって親として娘さんに先立たれると、狼狽えます。それでいいんです。字数制限でこれ以上応えられませんが、本当の優しさは、あなたの中にあるのですから。どうぞ遠慮なくメールでもお気持ちをお話しください。再礼
娘さんのご説法 向かう先、導き先がどこか。あなたが目を開く。
人間は誰もが説法をしているものです。
その説法とは生きざまであり、生きている姿そのものであり、死にゆく姿も説法。
苦しむ姿も説法。アイスが欲しいと申し出る姿も説法。そして、死して目を開かんとする姿もみな説法なのです。
悟りを得んでも得なくとも人は人の生きざま。それがそれ。
たとえお嬢さんが死んでしまわれたと言っても最後の死にざまにだけが用があるというわけではないはずです。共に過ごした100万ページの思い出は取り残されていていいのか。彼女の眼は自分が死んだという所だけ見ているのか。お嬢さんの方が立派ではないですか。人間は貴女もお嬢さんもご家族も私も誰も生まれを選べない。
昨日は私は熱中症で死を覚悟しました。
死ぬということは死ぬということなのです。
そして、死ぬということとあなたの迷い、お嬢さんの願いとはまるで別の事なのです。
死は死としてきちんと讃えてあげることです。
49日とは魂の開眼供養。仏の眼をひらく開眼供養。これから先向かうべき方向に目をひらく開眼の儀式です。
あなたが迷い苦しみの中にある様子をお嬢さんが見ればそれは死んでも死にきれないものがあるでしょう。
お嬢さんはすでに安穏の地、浄土、大宝楼閣、彼岸におられるわけです。
仏教の説く理想の地とは死んでから行くところというわけではありません。
あなたも共に向かうべき心の境地・境涯です。
あなたがいつまでも娘が死んでしまった死んでしまったと後ろ向きな心のままであれば、それはもうこれ以上先にも後にも進むことのできない大きな停滞である。逸れこそ生きながらの死でしょう。命とはそんなことの為に使ってはならないのです。もっと長生きしたかったお嬢さんが望んだ命と言うものをあなたも今、そこで授かっている。その限られた命であなたがやっていることは何ですか!そんな命の使い方をいつまでもやっていたらお嬢さんに申し訳がないと思いませんか。
だからこそ、仏教行事とは儀式形式ではなく、きちんと菩提心を誓願して供養塔をたてるということを通して大誓願をたてるのであります。
あなたが迷いを超えて、煩悩を断ち切り、仏の教えを学び、共に成仏せんと願うのが菩提心です。
あなたがあなたの中のお嬢さんを救いへと導くためにはあなたがお嬢さんとこれからも共に前に進んでいこうという志が必要です。あなたの中のお嬢さんの導きに目を向け耳を傾けるべきでしょう。合掌
質問者からのお礼
早速のお返事ありがとうございました。
私にはお嬢様が家族で輝いていると思いますと言って下さって、涙がボロボロと出ました。
娘はキラキラと輝いて、空からみていてくれるように感じます。
少しづつ、前向きに明るく頑張っていこうと思います。
ありがとうございました。
娘さんの方がりっぱじゃないですか?と言われましたが、本当にその通りなのです。
私は医者からの説明の時もいつも娘より先に倒れてしまったり、泣いたりで本当に駄目な親なのです。
でも、天国で会った時、お母さん成長したね、頑張ったねといってもらえるよう、少しづつ頑張っていきたいと思います。
ありがとうございました。