恵まれていることへの罪悪感
この世に苦しんでいる人や不幸な人が沢山いるのに、その人たちの犠牲の上で恵まれて幸せに暮らしていることに罪悪感を覚えます。
その相手も高みから憐れまれることが腹立たしく不快だろうし、この感情は誰のためにもならないにも関わらず、そのことで苦しむことが多いです。
人を救うなんてことはまず私には無理なのにそんなことを思う自分の烏滸がましさにも嫌悪感があります。
自分が不幸になったらいいんじゃないかと心の奥底で思い、自滅的な行動に走ったり、苦しんでいる人と同じ立場で共感したりすることで心を慰めてしまっているのも我ながら愚かだなと感じます。
自分の恵まれた環境を手放すことすらできないのに、こんな誰にとっても不快な気持ちを抱えて生きていくのがとても辛いです。どうすればいいのでしょうか。
抽象的な質問で申し訳ありません。よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人に人は救えずとも
はじめまして。ご相談拝読しました。
苦しんでいる人や困っている人を何とかしたい、救いたいという気持ちはけして悪いむのではないでしょう。むしろ人として素晴らしいものであると思います。
しかし、その人としての思いには限界がある。人に人を(真の意味で)救うことは難しいのだと思います。
なぜならば、恵まれているといっているあなた自身がこんなにも苦しんでいるように、人は誰もが真実がわからず迷い苦しんでいるのです(たとえそれに無自覚だとしても)。迷っている人に迷っている人は救えません。
ならばまずはあなた自身がそのあなたの環境を活かし、あなたの幸せを獲得し、表現して欲しいと願います。
あなたに人は救えなくても、あなたのたどり着いた某かの表現から救われる人がいるかもしれません。
幸・不幸、快・不快・・・そうした二項対立の価値判断による迷いを人間は脱せません。でもそれが迷いであると知らしめるはたらきがあります。それを仏教では仏と呼び法(教え)としていただくのです。
法に触れた人を通して法が人に伝わり、仏に出遇う。仏に出遇うとは自分では気がつけない迷いの自覚をいただくということです。そこに仏教における救いがあるのでしょう。
仏教における救いの主は人ではなく、仏です。仏の法の中において、恵まれていると思う人もそうでない人も、同じく迷いの存在・救いの対象として存在するのです。
質問者からのお礼
ご回答いただきありがとうございます。
自分が今まさに迷い苦しんでいて、救いの対象であることを失念していました。
人に人を救うことはできないということを認め、謙虚な気持ちで、まずは自分の人生に集中しようと思います。
心が少し軽くなりました。ありがとうございました。