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毒親は治らないのでしょうか?

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有り難し有り難し 23

こちらで、いつもお世話になってます。
以前も毒親のことでこちらに相談させていただきましたが、毒親の両親から長年の呪縛から、支配されて言葉は悪いですが、早く死んで欲しいです。
死んだことによって、ホッとする自分もいます。
一人っ子なため、全てにおいて、期待され、それがすごく重荷になり、こちらの状況(プロフ参照)お構い無しで、自分たちの都合で毎日、LINEや電話と頻繁に連絡(主に母から)してきて、とるようになり、それに合わせてた自分が疲れてしまいました。
また、本人は、自分がやっていることが正しいと思っていて(親だから)、なにか指摘しても、自分の言動や行動に全く自覚がないです。

こういう毒親を持つ子供が、親に対して変わってくれるかな?とか変に期待してしまい、結局の所、何も変わらないんだなぁと身をもって経験してきました。その繰り返しです。

親に対しての怒り、恨み、親へのトラウマがあり、どうしてもぶつかってしまいます。そして、ぶつかってしまうと、今度は拍車をかけたように父が電話に出て、酒を飲みながら、暴言吐きまくり、色んなことを求めてきて、最終的に私が悪いの一点張りで、親子の縁を切る!もう家に来るな!などよく口にします。親子の縁を切ると言っておきながら、しばらくすると、親子だからとか、笑いながらケンカして言いすぎたとか、何事もなかったかのような振る舞いで、私自身、沢山傷つけられました。親からのトラウマの塊を消す?方法や和らげる方法がございましたらご助言下さい。
関わらないのが一番いいことは分かっています。
よろしくお願いします。
※ちなみに、私の父71歳、母70歳です。

2022年8月4日 10:15

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

毒親の毒を無毒化する㊙方法

埼玉には飯能という素晴らしい地があります。人によっては何もないから嫌だ(襟裳か)という人もいます。大自然に恵まれて素敵という人もある。シャレじゃないですが同じ飯能なのに反応が違うのです。(シャレだ)
親ガチャ、上司ガチャ、先生ガチャ。人生は選べません。
生老病死の生の苦とは生まれや出会いを選べない事。
ですが、毒親の苦しみを軽減する方法、あります。🍜
まず矛盾するようですが、あなたの親が毒親でも毒親と呼ばない。
害毒があっても。毒視しない。
毒と評価する時点であなたの中にだけ毒素が生まれるからです。
かわりに「すごい親」「並外れている親」「パネェ親」と思いましょう。程度がスゲー。程度がパネェ、と。いろんな意味でスサマジーのです。
毒親だ、ヒデー親だ、タヒんでくれと思うとそのネガティブエナジーであなたが毒されて本人はピンピンしています。よって今日もスゲーなぁ(´-`*)という程度に。貴女が傷つかない為に貴女が自分の意志で心を傷つけないようにするのです。✨
㊙真言
【毒親は存在ではなく瞬間的な作用にすぎない】×21返(意味が分かるまで念ず)
あなたは貴女親を毒親と思っているでしょう。ですが存在が毒親なのではありません。毒親でも誰かにはやさしかったり、いい面がある。毒親でもその言動・行いの一つ一つが世界中に毒霧を噴霧しているわけでもない。よって、あの時のあの行動だけが毒だったと振り返り、存在自体は毒ではないと正しく認識する。すると行動の内容が問われるだけなので毒素が激減します。
毒親のストレス消滅㊙法
あなたがあなたの親を問題にして苦しんでいるその心の箇所を特定すればよいのです。
あなたにとっては大問題でしょうが、他の人にとってはぶっちゃけどうでもいい問題ですし、親御さんも今頃は涼しい顔をされて「え?毒親?誰の事?(*'▽')」とどこ吹く風です。
どこ吹く風か?どこにその風火は生ずるか。
実はみなあなたの脳内、心の中です。
㊙真言
【問題はその問題が問題なのではなくてそれを問題化・問題視する私の心】×21返
意味が分かるまで唱えなければこれからも毒親が悪いと相手のせいにしたり、問題の箇所を他方に求める心理が続き、救われません。
親ガチャ、先生ガチャ、出遭いもガチャです。
人間は24時間、全自動であらゆるガチャを授かり中です。
問題なのはその授かった直後の負の反応です。✨

2022年8月5日 12:08
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

本当に仰る通りです。
まずは、自分の心が傷つかないことを第一に考えていきたいと思います。ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ