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なぜこの世は無ではなく有なのか

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何故この世界は「無」ではなく常に「有」である必要があったのか? この世に起こり得る全ての結果には原因である何かが存在しています。その何かが存在している理由として宇宙ビッグバン誕生説が最も指示されています。その原因は「真空中の揺らぎ」だとされています。しかしそれは「有」が生まれた理由にはなりません。完全なる「無」からは何も生まれないからです。揺らぎの原因であるaが存在し、その原因であるbその原因である原因c、その原因であるd…以下略 と常に原因である「何か」が存在し続け、無限退行し続けます。そのため宗教ではよくそれを裏付ける根拠として「神」の存在が信仰されますがそれも同様で無限退行に陥ってしまいます。仮にそれを時間や空間を超越した神のような人知の及ばない存在し、この世を想像したとしても「神」そのものが「有」であるためその原因が必要になるはずです。神の原因であるa、aの原因であるb、c...etcとキリがないです。
この世の全ての問いは「どのようにして世界が作られたのか?」ではなく、「何故無ではなく有であったのか?」という問いに帰着するのではないかと思いますし、個人的には哲学においても最も答えを導き出すのが困難な問いだと思います。無から何も生まれない良いように、どれだけ有を追いやったとしても完全に消滅はしません。全ての現象を因果関係で考える人間特有の物差しが通用しないのでしょうか?最近不登校鬱気味なのでこんな事を一日中考えてしまいます...この極めて解答困難な問いについてどう思われますか?

2022年8月11日 6:53

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そして今そのすべての存在がそれぞれ答えを出している

全ての存在は互いに互いの存在を救うために存在している。
これは私の独自の見解で別に経典にそう書いてあるとかいうものではありません。
ただ仏教では菩提心を説きます。
菩提心とは一切を救う精神。
どうして殺し合うために生まれてきたなんて悲しい生命がありましょうや。
今、境内ではセミが鳴く。この暑い中でにジージー、みーんみーんと鳴いてオスメスと出遭い子孫を作る。ところがとある市町村ではセミは害虫ぢゃと駆除対象に。
セミからしてみれば人間は実に最低の侵略的な外来生物です。
植物の世界にも動物の世界にもそういうものがある。
ところが、その最低な人間さんは本当は何のために生きているのかと言えば、その人間性をこの上なく高いところまで高めるために生きている。せいぜい100年。その間に何ができるか。まるでそう言ことをしないまま死んでいく害悪しか生まない人間もいる。
元々誰もがオタマジャクシのような存在だった。オギャーと泣いて今日にいたる。
一方では人の迷惑にしかならない偏狭思想・カルト宗教をつくって社会の平和な家庭に害悪を及ぼす不届きな人間性の人間もいる。
先日たまたまテレビで見たドラマでは女性がストーカーのせいで人生がボロボロになり警官の彼氏にまでも犯罪を犯させてしまい、さらに彼を守ろうとして彼女も共犯。犯人は自死でしたが(ドラマです)その女性は「この世からいなくなってくれてありがとう」と言ってました。スゲー濃い内容だなぁと思いましたが、本音の心情でしょう。世の中にはいじめっ子いじめられっ子、加害者被害者の構造が世界各地で尽きない。存在のその存在たらしめる存在意義は何かを問うのです。
大事なのはその存在がどう作用しているか。どう機能するか。どう人を、心を、世間を、良い方向へ導いてくれるかでしょう。利する。益する。助ける。それが存在意義。存在することの尊厳が保持されていくということ。凶悪犯が凶悪犯罪を継続しながら存在し続けたら社会にとって害悪。
だから仏教は菩提心を自ら奮い起こして人を救う働きをなすべしと説く。
心をしずめしずめしずめきってみれば壁や柱、木や植物だってやさしく働きかけてくれていることに気づく。そういう所を知ってから存在論を語るとよいでしょう。
虚無的な存在論・有無というのは救いがないと思います。
そこに導き先はアルンカイと自己に問うのです。優しさはそこにある。

2022年8月11日 16:53
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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