レイシズムと因果について
私は現在大学で社会学を学び、多文化共生の道筋(異文化教育学)を調べたりしています。自分を含めた複数の文化的ルーツの人々が暮らしやすい環境を作る為です。
先駆者の理論などを学ぶにつれ、社会における自分の立ち位置を理解し、精神も依然と比べて安定はしているのですが、どうにも腑に落ちないわだかまりを感じるのです。
見た目が違うと言う理由だけで警察に職務質問されたり、日本でずっと育ったのに外国人(犯罪者)扱いされたり、慣れてくると「考えても仕方が無い」と無感覚になるので今は怒ったりはしないのですが。
以前聞いた仏教における「因果」の話に矛盾を感じてしまいます。私の認識では善因善果や悪因悪果の様に自分の不幸の原因が自分にあり、大概の場合は理に適っていると思います。差別や警察への対処法では本当に当てはまってて、知り合いの混血もけんか腰で話してたら公務執行妨害で押さえつけられてました。(;´Д`)
しかし差別される苦しみ(果)が自分が捲いた(因)であるとは思えないのです。もしこの苦しみをもたらしている因果に心当たりがあるのであったり、私の解釈が誤っているのであれば教えていただけるとありがたいです。
理不尽?と言えば良いのかはわかりませんが、この様な社会において他者に対してどの様な心構えを持てば良いのかもご存じであればご教授願えないでしょうか。
無意識・意識的に差別を繰り返す日本人、英国人に対する憎しみ。 他人の不幸に対して無感覚になれない事。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
歴史を学び本当の智慧を学ぶこと
拝読させて頂きました。
あなたがどうも腑に落ちないわだかまりを抱えておられることを読ませて頂きました。
あなたがおっしゃる通りその様なひどいことはやはり世の中であちこちあると思います。どう考えても納得することのできない様なひどいことありますよね。あなたのお気持ち全てとは言いませんが、お気持ち心よりお察しします。
目の前に起きる結果は原因とそれ程単純に出る訳ではありません。
一つ一つの原因から様々なご縁というか要因がからみあい関係しあい影響を及ぼしあっていますし、その時期やタイミングによっても大きく結果は変化していくものです。
ですから一見すると単純な様に見える事象も様々な無数のご縁の中でもたらされていますし、そこからまた新たな原因となりながら次へとつながっていくのです。
あなたがおっしゃる通りこの世では本当におかしいことやひどいことや理不尽なことが溢れています。
本人には全く責任がなかったり身に覚えがなくても職務質問されたり事件に巻き込まれて怪我や被害にあったり或いはひどい時には命を落としてしまったり殺されてしまうこともあります。
その様な全く責任や身に覚えなくても非業というものはあるのです。
あなたがおっしゃる様な人権差別や人権侵害は世の中や世界に存在するいわれなき差別や偏見の歴史が残っているからでもあるでしょう。
それは端的に言えば私達人間の愚かさや我欲の積み重ねだと思います。人を見た目だけで判断したり人種や民族や外国人ということで差別や偏見を持って排他的になること等さえたるものです。
私達は今までの自らの歴史をしっかりと学んでいかねばなりません、どの様なことも我がこととして向き合って悪き考えや言動を変えていくことが必要です。
ふと忘れていると私達はまた愚かな考えや言葉や行いを繰り返してしまいます。
自分達さえよければいい、他人のことなど見て見ぬふりをすればいい、或いは他人は出て行け、自分のものは自分だけで独占して他人のものさえ自分のものとして奪ってしまおうとつい思ってしまう私達がいるのです。その様な愚かなことを繰り返してきた私達を知り心から反省して懺悔しその様な悪しき考えや言動をしない様にと心から誓っていく必要があります。或いは誰もがお互いを心から尊重し合いながら思いやり分かち合い生きていく必要があります。それが智慧です慈しみです、仏様の教えです。
自業自得は明るい教え
仏教では、生き物は果てしない昔から輪廻転生を繰り返してきたと考えます。
私達は、過去世の罪の報いで苦しんでいる、少なくともまだ悟っていない(修行不足だ)から未だにこの世に留まっており(成仏できておらず)、ストレスを感じやすい性格が直っていない。
悟っていないから愚かな行動をしてしまい、その行動の報いでまた苦しむ。
そのように、自業自得を基準に考えてはどうでしょうか。
それは、他人への怒り憎しみを減らす思考回路です。
怒り憎しみはストレスの原因になり、暗い気持ちにつながります。
自業自得と思って他人を憎まないなら、平気へっちゃらで明るい人生になります。
虫一匹も殺したことはないか?見た目で動物を差別したことはないか?
そう考えれば、決して他人事ではなく、自分も同じような酷いことを他の生物にやってしまう恐れがあるし、過去にもやっていた可能性があります。
だから「お互いさま」なのです。
業には生まれる前のものと生まれてからのものがある
仏教の因果は無数の前世の分も含めています。それは自分でも分からないので、今世でえらく理不尽な目に遭っているとしたら、「まあ、前世の業が悪かったのだろう」と仏教国では無理やり気に病まずに対処します。「どうして私だけがこんな目に遭うのか」と苦しんでも現状は変わらないので、境遇は変化しなくても心の持ち方だけを変化させるのです。
それと別に、生まれてから自分で作る業もあります。考え方や行動の仕方、言葉遣いは、どうしても、親など近しい愛しい人々の影響を受けます。良い影響なら良いのですが、言葉遣いや考え方など、どうも良くないと分かったら、自分で努力して改善します。これは今世で作ったものなので改善しやすいです。
社会学を学ぶなら、マスコミの影響も学んでください。k-popだといって韓国好きになったりなんだか社会の影響で中国や韓国を嫌ったり、みんなマスコミの力ですが、影響が大きすぎて気づきにくいです。これに気を付けてください。
マスコミ関連は、日本ではマスコミ(新聞など)が出始めた明治から始まります。欧米ではもう少し早かったので、アジアに進出した時によく利用していました。大学の社会学などではあまり教えない部分です。
まとめると、今の社会の変な部分、理不尽な部分は、マスコミなどの誘導によるものが多いです。それらは生まれてからの環境なので、改善できるし、レポートで改善方法を提示することもできるでしょう。前世からの因果は、およそ証明できないので、東南アジアの仏教国の調査に行ったときなど、現実への対処法の一例として現状を報告することはできます。