過去の過ちの考え方について
小学生の時です。
3ヶ月くらいの期間少し悪い子とつるんでしまってました。
ここではA.Bさんと呼びます。
(当時はその子たちはただ悪ぶってるだけなのかと思ってました。)
ある日A.Bさん含めた4人くらいで駄菓子屋に行った時です。
自分が買いたいお菓子の場所にお財布が置いてありました。
「誰のだろう?」A.Bどちらが近くにいたので、ポツリと言うと
財布をとり、外に出ながら
「中を見よう」といい、一緒に来てた友達と4人で見ることになりました。
中を見ようは建前で実際にはお金を取ろうとしてました。
幸いにもお財布の中には5円で大金は入ってなく、A.Bさんは残念がってました。
5円と一緒に入っていたのはその子の名前の書いた図書館のカード。
持ち主の子や駄菓子屋のおばちゃんに渡した方がいいんじゃないかと思いつつ、
当日A.Bさんが怖くて言い出せなかった私。
その2人は良いよ、ここに置いておこう、と駄菓子屋の近くにあるゴミ箱の上に財布を置きました。
再び駄菓子屋に戻ったのですが、罪悪感で楽しめませんでした。
そんな中数分後、ある女の子が「財布がない!」と叫びます。
おばちゃんも底の駄菓子屋にいた子もみんな「え?!」と声をあげて探し始めた途端、
A.Bは私ともう1人の友人に向かって「逃げよう!逃げよう!」といい私達を連れ出してさっさと逃げてしまいました。
もちろん私達も逃げてしまいました。
それから1ヶ月後にクラス替えがあり、離れて関わることは無くなり安心しました。
しかし、ふとこの出来事を最近思い出したのです。
今なら、なんの躊躇いもなくできるのに
「おばちゃん!お財布ここにあったよ!誰かの忘れ物かな!」
「誰かお財布落としてませんか?!」などなぜ当時は声をあげることができなかったのか。
自分の弱さと勇気の無さに悲しくなります。
お財布を無くした子だけでなく、駄菓子屋のおばちゃんにも悲しい思いをさせてしまいました。
誰だって自分のものをとられるのは嫌なのに人はどうして名前が書いてあっても物をとってしまうのでしょうか。
小さい5.6歳の時にはできる素直に「これ誰の?落ちてたよ」と言う事がなぜできなくなってしまうのでしょうか。
私は謝ることの出来ないこの出来事をどう償えばいいのでしょうか。
人に優しく、未来の子供にはそんなことをさせない。今それしかできません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
常に我が身を振り返ることから、聞き入れる私になっていけます。
大した罪とも考えずに、興味本位でしてしまう行動。誰かと一緒なら、流されたり、言えなかったりすることもありますね。言い訳のように、仕方がなかったと納得してしまう自分。
そんな経験は、少なからず、誰にでもあるのかも。
今、こうして思い出されたり、あの時はこうするべきだったと考えられるのは、善悪の判断ができるようになったり、自分だけでない誰かの気持ちを考えられるようになってきた証拠でもあります。
罪悪感を持つことも、これからの自分を律してくれますよ。
仏教は、常に我が身を振り返ることから、聞き入れる私になっていけます。罪を認めることは、生き方を見つめなおす大事な視点。
あなたの誓いを、実践していけるように。
仏様は、これからのあなたを、ちゃんと見ていてくださいますよ。
これからの未来で心がけましょう
拝読させて頂きました。
おっしゃる通りですね、先ず「人に優しく、未来の子供にはそんなことをさせない。今それしかできません」ですよね。あなたは身をもってそのことの大切さを理解なさったのです。深く心に刻んだのです。そのことをこれからも進んで心がけていきましょう。
そして心の中でもその人達に謝りましょう、心から神仏やご先祖様に懺悔して生きていきましょう。
その子達とのご縁は悪縁です。その様なご縁はしっかりと切ることです。
あなたがこれからの未来を一切その様な悪業をすることなく善き心がけや言葉や行いを率先してなさり、大切な方々と一緒に心から仲良くお互いを思いやり助け合い、心から豊かに幸せに生きていかれます様に切に神仏やあなたのご先祖様に祈っています。