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高校生です。嫌なことが続いて辛い

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有り難し有り難し 14

学校辛いです。 (高校生)
夏休みあけの学校が始まりました。テストや人間関係でプレッシャーやばくて、その時期に嫌な事が重なって、ストレスが爆発しました。1週間全て学校休んで病みました。休み明け登校したけど、上手く笑えなくて辛いです。いつもふざけてばっかで下ネタしか言わない仲の良い友達に心配されると心が痛い。
どうにも出来ない休んだ現実。乗り越えるのが辛い。逃げ出したくもない。
背中押してください。高校生活に押しつぶされそう。毎日ストレスがやばい

2022年9月27日 3:23

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

青空の導き先 それでも青空をみるこれは誰か 何者か

ブルーハーツの名曲に青空という曲があります。
私もあるブルーハーツのカバーバンドに依頼されギターで参加して知りました。
歌詞も奥深いものですよね。
人間はどれだけ多くの人たちに囲まれたとしてもそれでもあなたはあなたの自分の活動しかないと知ることです。それは他人も同じ。
バンドのボーカルならボーカルをやるだけ。
過ぎたメロディーの歌詞をいまさら歌ったとしても間に合わない。
2番の歌詞で1番の歌詞を歌ってもズレた活動。
今あなたは今日という3番4番今の最新の伴奏で今の事を歌えばいいのに、すぎた1番2番のことを振り返っている気配があります。過ぎた過去のことはもう流れてしま田水道の水ですらどこに行ってしまったかわからないのですから「ない」「無い」。追いかける必要すら「ない」「無い」のです。
ですあるのは何か。
今のこの現実。このこと。今日の今の一瞬。
あなたの心のネガティブなツッコミが入る前のまっさらな今を今、授かっている。そこは誰も立ち入れない。
そここそ、まぶしいほどの青い空の真下とでもいうべきもっとも清浄無垢な今のひと時なのです。
あなたはそこで歌って踊るように、今をLIVE活動すれば迷い哀しみというコケすらつく暇のない天然ROLLING STONE‐FREEな生き方に目覚めるでしょう。
人間はなんだかんだ、あーだ、こーだ言ったって、今あるのは今のことしかない。
人がどうしたアイツがどうしたこうした言ったって、あんたはアンタのことしかない。やることがいっぱいあるかのように錯覚することはあっても、生きられるのは今だけ。世界広しといったって足のあるところしか立てねぇ歩けねぇ。
空気や水は飲み込めない程あっても、今の一飲みしかできん。
24時間時間があるなら自分を苦しめることをやめてもっと自分が気持ちい光に照らされる方向に向かって歩むのです。
師匠がよく言っております。
「人生は自分のことしかない、自分の今のことしかない。」と。
これは、自分のことだけわがままにやれという意味ではない。
今考えていることも、あなただけのこと。
観ている景色もあなただけのこと。
完全に独自、その時、その場、そのこと限り。
じぎり、ばきり、それっきり。どこにもアンタが悩んでいた雲なんてどこにもない。青空は外にだけ求めるものではありません。たった、今から、すぐ、そこで。もう、あっちじゃない方へ。

2022年9月27日 9:55
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

初めて質問したので、コメントという機能を知りませんでした。
ありがとうございます!!

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