死と病気への恐怖
入院中、薬品のアナフィラキシーショックで「死ぬかもしれない」と思う体験をしてから、近く自分が死ぬのではないかとものすごい恐怖に襲われパニックになります。
あの闇に呑まれるのではないかという感覚、ある程度年齢を重ねれば違うのかも知れないけど、わたしはまだ若く、もし万が一そのようなことになったらまだまだやり残したこと(やりたいこと)、叶えたい夢、思いがたくさんありとても強く、不安や恐怖も人一倍強いため、死ぬのは物凄く恐く苦しいだろうと想像してしまい、どうしようもなく辛いです。気になって過去、今のわたしと同じくらいで闘病して亡くなった方のドキュメントなどを見てしまい、余計ものすごく恐ろしく感じました。
入院中の体験から3ヶ月ほど経ち、体験そのものの記憶は薄れつつありますが、どうしてこんなにも恐怖が根強く残っているのか、自分の体のことが気になってしまってもし万が一○○(怖い病名)だったらどうしようといても立ってもいられないほど怖くなります。わたしは死にたくないです、怖い病気には絶対なりたくないし、手遅れの状態はもっと嫌です。
毎晩目が覚めてしまい、不安が押し寄せてきてとても恐くなります。不安が収まりません、
どうぞ宜しくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
映画が過ぎ去ればスクリーンは白い布
心は無常だという真理を覚えておいてください。
心にはさまざまな思考、思考に誘発された感情、感情の残り香のような気分の上げ下げが、瞬間瞬間に浮かんで消えていきます。
心は瞬間ごとに変化し、毎分毎秒に新しい心に生まれ変わっています。
ということは、「私」も瞬間ごとに新しい自分なのです。
たとえば、映画が終わればスクリーンは真っ白な布に戻ります。
あなたが抱く不安や恐怖の映画も必ず過ぎ去り、心のスクリーンが静かで真っ白な落ち着いた状態に戻る時間があるはず。
ですから、どんな不安や恐怖もスクリーンを汚せない、通り過ぎる映画だと思って、安心してください。
また、台風が来たら雨戸を閉めたりして、台風が通り過ぎるのを待ちますよね。
もしも、恐怖や不安が嵐のように襲ってきたら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を称(とな)えてください。
仮に今死んでも、念仏をして救いを求めるなら、阿弥陀仏はあなたを極楽浄土にすぐに迎えてくださいます。
南無阿弥陀仏、
なむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶなむあみだぶ
と口ずさむ念仏を「心の雨戸」だと思って、台風(不安や妄想雑念)が過ぎ去るまで念仏に守ってもらいましょう。
念仏すれば極楽に往生できる。
だから、生きても死んでも問題ないと思いましょう。
質問者からのお礼
願誉浄史さま
読んでくださり、お返事を下さって、ありがとうございます。お礼を書くのが遅くなってしまいました。
心も「私」も一瞬ごとに生まれ変わっている、無常である、大切なことだと思いました。
怖いかもしれないことの心配をしているより、阿弥陀さまもいらっしゃることですし、安心して今一瞬を充実させて生きることを大切にしていきたいです。
ありがとうございました。