死恐怖症かもしれない回答受付中
お世話になっています
皆様の質問と回答を参考にさせてもらっています
自分について考えてみたのですが私は子供の頃から死恐怖症なのかもしれません
子供の頃から死を連想させる物が苦手で避けてきました
お葬式や法事だけでなく歴史の授業や空や海も死を感じさせるせいか嫌いでした
知り合いに赤ちゃんが産まれたと言われた時ですら嫌な気持ちになりました
子供の頃から色々な物が怖かったです
時間が経つ事そのものが怖いです
若い頃は嫌な気持ちになっても音楽や映画など好きな事して何とか若さで誤魔化せていたのですが、最近は今まで好きだった趣味などにも興味が無くなってきて誤魔化せなくなってきました
何を見聞きしても頭の中が嫌な気持ちや恐怖心でいっぱいになってしまい生活しているだけで疲れます
孤独感も感じます
こんな自分を変えて死恐怖症を克服したいです
穏やかに歳を取って死にたいです
どうすれば良いと思いますか
よろしくお願いいたします
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ご相談くださり、ありがとうございます。
「死が怖い」という気持ちを、これほど丁寧に、誠実に見つめてこられたあなたの姿勢に、心から敬意を表します。
まず最初にお伝えしたいのは、死を恐れる気持ちは、人間としてごく自然な感情だということです。
仏教の開祖・お釈迦さまもまた、生・老・病・死の苦しみを深く見つめ、「この恐怖や不安をどうしたら越えられるのか」と探求されました。
つまり、あなたが今感じている苦しみは、決して「特別な悩み」ではありません。
むしろそれは、本当の意味で「生きる」ことを考えた心の動きでもあるのです。
歴史や空や海すらも“死”を連想させるという感覚は、言い換えれば、世界の移ろい・無常さを肌で感じ取るほど敏感な感受性をお持ちということです。
仏教では、すべてのものは「生まれては変わり、やがて消えていく」と説かれ、
それを「無常(むじょう)」と呼びます。
そしめ、一日一日を大切に生きる智慧でもあります。
恐怖を否定せず、「そう感じている私を、今日一日だけでも大切にしてみよう」――
まずはその“肯定”から、苦しみは少しずつやわらぎます。
1. 「死は“未来のこと”」と理解する
仏教では、「死」は確かに避けられないものですが、それは「今起きるわけではない」とも説きます。
そういう意味で、私たちが本当に考えないといけないのは、生きている、“今この時"です。
未来の不安に心を奪われるのではなく、
「今、手に持っているお茶が温かいな」「今日の空は少し明るいな」といった、
“いま生きている実感”に意識を戻してみてください。
2. 「仏のまなざし」に包まれる感覚を持つ
浄土仏教では、阿弥陀仏という仏さまが
「どんなに苦しみを抱える者も、見放さず迎えに来てくれる」と誓われています。
「死」は終わりではなく、仏の光に還っていく旅立ちだと考えるのです。
そう思うとき、「死ぬのが怖い」という思考から、今のこの人生をどう生きようか、どう安らかに迎えようか」という思考へと、少しずつ心が変わっていきます。
あなたが望んでおられるように、
「穏やかに歳を取り、安らかに死を迎えたい」という願いは、すでに“仏の心にかなう祈り”です。
どうか、恐怖にとらわれた自分を責めず、
「この苦しみを越えたい」と願う自分を、大切にしてあげてください
生きることも『こわい』ですよね
はじめまして。投稿拝見しました。
Jikaiと申します。
死に対する恐怖や、時間の流れに不安を感じる気持ちは、決して珍しいことではありません。
仏教でも「生老病死」は誰もが避けられない苦しみとされており、そこから逃れたいと願うのは、人間としてごく自然なことなんですよ。
しかし、仏教の考え方には、「恐怖をなくそう」とするよりも、「恐怖と共に歩む」視点があるんです。
たとえば、死を「遠ざけるべき忌まわしいもの」として見るのではなく、「限りある命のありがたさを教えてくれる存在」として受け取る。
こういったようなことです。
そうすることで、今この瞬間に目を向けやすくなるんですよね。
「いまここにあるもの」へ心を置いてみる。
空や海、音楽、会話、呼吸…
ほんの小さなことでもいいんです。
不安や恐怖が湧いても、それを否定しなくていい。
ああ、また出てきたな、と静かに受け止める。
「観る」だけでいいんです。
ひとりで抱えるのは本当に苦しいことです。
だけどこうして言葉にしてくれたこと、それ自体が本当に大きな一歩です。
「穏やかに歳を取りたい」と願える心があるなら、きっと大丈夫。
焦らず、少しずつ、自分との付き合い方を変えていけます。