罪悪感から逃れてもいいのだろうか
私は大学院在学中に同期の学生からいじめ紛いのことをされていました。私が真面目に研究しているのを見て文句をグチグチ言い、教員に頼まれたこと(研究以外のこと)を全て私に押し付けた上に気に入らなければ文句を言う、注文をつける。嫌だと言っているのに近づいてくる(相手は男性。世間的に歓迎されなさそうな外見。性格も私とは合わない)。
女性がほぼいない分野なのを分かってて「友達がいない残念な奴」としつこく馬鹿にする。私は大学院外に友達がいて、研究の場に女性がいないから友達作りを優先していないだけでした。
対外的な場にいけば「こいつ馬鹿なんですよー(笑)」とアピールする。幸い、研究発表すると私は評価され相手は勉強していないため、周りは真に受けませんでしたが、性格悪いなと思ってました。
問題は、その人の就職先が教員であったことです。その人自身がどう生きようと知ったことではありませんが、受け持つ生徒が可哀想すぎる。本人はいじめ肯定派と自分で豪語するほどの人間です。私はどうすることもできませんが、罪のない子供達にそんな人間を教師としてあてがってしまう運命の流れに、その人の人間性を知っていながら抗えなかったことに対してずっと罪悪感を抱いていました。
しかし、私はこの数年で人から「もっと自分を大切に」と言われることが多いため罪悪感を手放していく必要もあると感じています。知らない子供達のことまで罪悪感を抱えることは理想的ではあっても手に余ることだとも思います。
この世のすべての人が安らかに過ごせる世界にしたいと願っていますが、抱えきれない罪悪感は手放してもよいのでしょうか?手放す勇気がほしいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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そんな罪悪感は持たなくていい
りんご 様 相談ありがとうございます。
結論的にいうと、そんな罪悪感は持たなくていい。ということです。
あなたをいじめた、同期の人も、教師になったからと言って
虐めを肯定して、生徒にそれを実行するかは別問題です。
おそらく虐めの肯定は、無理でしょう。
豪語したところで教師失格になるだけです。
児童であれ、生徒であれ、あてがわれた先生だけで人生が左右されるわけではありませんし、その流れは、あなたのせいではありません。あなたに罪はありませんし、性格悪いという他人をあなたが変えることはできません。あなたが抗ったところで変わらないし、罪自体を感じる必要もありません。いきなり知らない子供たちの罪悪感を背負うなんて、高慢な考え方だと思います。
あなたは、あなた自身の安心安全を育んでください。それがあなたの身近な周りへ波及することを考えてください。自分の足元をしっかりと見て、段階を踏みながらそこから安らかな世界へと意識を向ける。そんな感じになってみてください。
そうすることで、開放感、罪を手放した感覚に充分浸れるでしょう。
私はそう思います。一礼
追伸:お礼メッセージありがとうございました。安心安全感を心地よく得るために、思いやりや優しさで包まれているイメージを持ちましょう。心の温かさが、その感覚を確かなもとするでしょう。またどうぞお話しください。ご縁に感謝申し上げます。再礼
質問者からのお礼
釋さま
ご返答ありがとうございます。
確かに、知らない子供達のことよりまずは自分の足元からですね。
自分の安心安全…を育めば私の幸せを願ってる周りの人を笑顔にすることができるかも、という気でやってみます。