朝の通勤ラッシュで空席までダッシュする人に腹がたつ
毎朝、満員の通勤電車に乗っています。
乗り換えの駅があって、その駅のホームの向かいに乗り換え電車(始発)が止まっているのですが、満員の通勤電車のドアが開いたとたん、向かいの乗り換え電車の席に座ろうと猛ダッシュで走って行く人がいます。
自分も疲れてるので、空いてる席があればもちろん座りたいですが、走ってまで席を取りに行きたいとは思いません。まわりを蹴散らしてまで必死になる人を見ると腹が立つのですが、本心は座りたいのに座れない自分を正当化しているだけなのでしょうか。
毎朝のイヤな気分から逃れたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人は礼儀や礼節を失うと、動物に戻ってしまいます。
はじめまして、日蓮宗の赤澤と申します。
まわりを蹴散らしてまで必死になる人を見ると腹が立つ、確かにそうですよね。私も同じです。いらっときます。
そして毎朝の嫌な気分から逃れたい、というあなたのお心はとても普通だと思います。
こう思われたらいかがでしょうか。
人間は頂いた命はお返ししなくてはなりません。では亡くなったらどうなるのか。また別の生命体として生まれ変わります。
そして、それが人間とも限りません。動物かもしれません。
そう考えると、走って席をとりにいく人は「ひょっとしたらこの間まで動物だったのかな。たぶん今回人間するのは初めてなんだな」と。
そう考えると許せませんか?
反対になんでもできてしまう、独り占めせず、自分のものは分けてあげる、強い心を持つ方は何度も人間をしているのだと思います。人は礼儀や礼節を失うと、動物に戻ってしまいます。
そして、そういう方は周りから愛されます。数多くのご先祖様から頂戴したこの命、自分は人から愛され、大切に使わせていただきたいものです。
明日から良い通勤となりますように。
見方を変えてみる!?
私も僧侶ではありますが、通勤電車に乗っております。衣の姿ではなく、スーツ姿ではありますが。
takさんのように私も乗り換えの人や電車内でのマナーなど気になります。
ただそのような人は、自分の中では、走って席を取りたかったりする行為は「あたりまえ」になってしまっているのだと思います。電車という乗り物が「自分の物」になってしまうといろいろ欲、煩悩が出てきます。「席に座りたい」などたくさん出てくると思います。私自身もたくさん煩悩が出てきます。けれどもその「自分のもの」という視点から少し離れて、「目的地まで運ぶための共有手段、乗り物」と思えば少しその欲、煩悩は変わってくるのではないでしょうか?仏様は「あなたの苦しみはわたしの苦しみ、あなたの楽しみは私の楽しみ」と思って下さいますが人間の私たちにはなかなか難しいです。なので少し自分の「ものさし」をのばして物事を考えると少しイヤな気持ちも晴れるのではないかと思います。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
いいか悪いかは置いといて、走っていく人を見て、シマウマやネズミを想像すると確かに楽になったので助かりましたw
また、自分のものではない共有手段だと一段上の視点から見てみると、小さいことでイライラするなと自分に言うことができそうです。
とはいえ、また怒るときもあるのですが、そのときはまた相談します!