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母になんと言ってあげるべきでしょうか?

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有り難し有り難し 6

3か月ほど前に父が脳梗塞で突然倒れました。
今はリハビリ病院で頑張っていますが、あたまがぼんやりとしたまま話もできない状態です。

父は小さな会社を営んでいました。
跡取りとして兄(40代独身)もそこに勤めていました。
ここ数年かなり厳しく倒産やむなし・・・!という状態で父が倒れました。
会社のことは兄の肩にかかってしまいましたが、
債務も多く、治療費生活費もあり、いかんともしがたいのが現状です。

兄についてなのですが、
ひとつひとつ問題を解決するにあたっていろんな方法を提示し進めようとしてくれるのは頼もしいのですが、
ちょっと壁にぶつかるとすぐにその方法をやめてしまうのです。
結果、問題解決のためにいろいろ手を出しては続かないので母と私が若干振り回されている感じになっています。
その度ごとに資料を集めたり、一喜一憂したりするからです。

あまりにそういうことばかりなので、母がちょっとストレスがたまっているようです。
かなり私に愚痴ります。
「言うことがころころ変わり、頼れない。口ばかりでいざとなると行動してくれない」などなど。
どちらかと言えば、これまでずっと兄を甘やかし、会社の経営不振についてもギリギリまで兄には告げずにごまかしてきたのは母です。
(私は両親の愚痴係なので、最初から聞いていました)
私はこれまで何度も母に「兄に甘すぎる」と窘めていましたので、今更母が兄のことに文句を言うのも違和感を感じます。

でもそれ以上に70歳を過ぎ、配偶者が突然倒れ、しんどそうな母に優しい言葉をかけることで前向きになってもらえるなら嬉しいと思っています。
こういうときに、なんと言ってあげたらいいでしょうか?

一番の問題は、会社は休業状態で収入もなくなっていることです。
私も独身で今も母、兄と一緒に住んでいます。
それでも私と兄はあまり会話をすることもないので、私から兄になにか言うことはできません。
私自身は父の会社に携わっていたわけではないし、やれるだけのことはやったのだから長年住んでいた家をとられても、リセットしても仕方ないと思っています。
兄が決めたことを貫いてくれるなら、うまくいってもダメでもそれが一番いいんですが、あまり期待しすぎても難しいかなと思います。

少しでも前をむけるお言葉をいただけたら幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お兄さんをワンマン船長にさせないこと

家族は船にに例えると漂流しては困ります。
行く先を決める舵取りがお父様からお兄様に代わられました。
船長はお兄様です。
ですが、前に進まなくなる、とあれば船長補佐が必要です。
皆同じ船に乗っているのであって、お兄様だけの船ではないからです。
一家そろって沈没させないためには船長のサポートが大切です。
ですが船長のプライドもあるでしょう。
ですがプライド云々などで沈没してしまっては元も子もありません。
船は前に進むべきです。航海するべきです。
浮かんでいるべきです。船員誰一人として心を沈ませてはならないのです。
船が航路に沿って進むように家族で話し合われることをお勧めいたします。
今自分たちが置かれている状況などを、上記のたとえを参考に軌道修正なさってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お言葉ありがとうございます。
ほんとにその通りで、家族として、また船員としてサポートをしたいと思います。
ただどうサポートしたらいいのか、思い悩んでしまいます。
今は船長が沈むと思っている船に乗っている状態で、沈まずに行くぞ!と思ってもらえるのかわからなくて、もうひとつ質問をあげてみました。
船の例、すごくわかりやすいです。ありがとうございます。

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