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辛い

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有り難し有り難し 5

僕は小6の時にパニック障害を発症
高校生の時に躁鬱病を発症。
高校生の途中で、学校の仕組みに疑問を抱き自ら退学(いじめを無視する体質等)
そして1年前、自殺未遂で精神病院の閉鎖病棟で2ヶ月間入院。

自殺未遂をして分かったのは、自殺をするという事は身近な人を後追い自殺させる事があり、絶対に行ってはいけない行為だと身をもって感じました。

私は退院後、薬物調整に入りました。
それは過酷なもので薬の加減で、意識をなくしたり、極度の体調不良で24時間のうち2時間程しか動けないことが、約10ヶ月続きました。

本当に辛く投げ出してしまいそうにもなりました。
ですが、前を向いて生きる為の努力をするべきだと思い。弱音も吐かず。
愚直に薬物調整を続けました。
5週間前に薬の調整が落ち着き、
現在はほとんど活動できます。

体調が悪いながらも、社会復帰を目指し退院してからの1年間様々な努力をしました。
語学の勉強。ランニング、トレーニング
そして上手く行ったことは他人のお陰。
そう思って行動して、人の悪い所を見ず、良い所を見るように。

常に私をサポートしてくれる方々に感謝しています。

ですが病気に対する偏見、また親族からの非難(甘えてる、自己管理がなっていない等)
に耐えています。

今日はカラオケの面接に行きました。
たまたま運が悪かったのか、面接官は圧迫的で「俺の機嫌を取ることが重要だ」
「気に入らなかったら潰す」
など疑問を感じる発言があり、正直辛い思いをしました。。

私は愚直に腐らず、常に良い行いを心がけ、周りに感謝をしていて、悪口や愚痴を絶対に言わないよう気をつけています。。

私の夢はプログラミングが得意なので、バイトをして、コンピューターを買い、会社を作り、世界中の人が笑顔になれる世界にすることが夢です。。

今現在本当に辛い状況です。。めげそうな気持ちを少しでも上向きにしています。
いつか我慢が実を結ぶように。。
辛いという字は幸せという字に似ています。
私は今辛い→幸せになれるよう努力をしています。
心が悲鳴をあげているのも現実です。
至らない私ですが、どうかお言葉を頂いけたら幸いです。
宜しくお願い致します。

2022年10月31日 23:04

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心の最高の繊細微調整 仏道は自己の最上の幸せプログラミング 

いまからお釈迦さまになったつもりで、あるいは出家した僧侶のつもりになって心を見つめ直してみましょう。
そもそも、その時代に薬なんてなくてもなんとかなったもんですから、必要最低限にしましょうね。
そもそも、人間には基本6つの操作バーがあります。
目、耳、鼻、舌、体、こころ。
それだけでもコントロール、操作が結構難易度高いのにそれプラス人間関係とかチョーめんどいっすよね。
ですが、それを運転する操縦席、コックピットはアタマ。心。脳です。何と読んでもいいですが、そこ一ヶ所だけです。
まず、1000ページある本を読むのも、10000文字以上のプログラミングの入力もそれをやる箇所はそこ一ヶ所だけだとよーく見つめましょう。
そして、職場の嫌な上から目線のマウントを取ってくる先輩も、人生生きづらいワァと嘆く場所もみんな一ヶ所なのです。これを読んでるところも同じです。
そして、修行して統制すべき心も唯一、そこ一ヶ所なのですよ。
そっちを向かずに心を他方に向けてしまうと、薬をあれこれ飲まなきゃいけなくなったり、あれもしちゃダメ、これもしちゃダメ、あれもこれもとたくさんやらなきゃいけないような心理に追い込まれてしまうのです。
私の知人さんも薬の過剰摂取でもう元に戻れなくなっちゃった可哀そうな方がいますが、そもそも一番の問題は誰であっても!自分の心の動かし方を習わないということなのです。
坐禅とは座禅をするとか無になるとか空っぽになるとかじゃァありません。
あなたがいつか薬なしでもそのままの自分を愛せて皆を幸せにできる心を手に入れる為に必要な、自己のセルフチューニングなのです。
心の波の水面を平らかにしようとして、心を刺激すればそのアクションによって波が立ちます。
こころのチューニング、心のプログラミングの達人は、まずはマウスもパッドもクリックも触りません。
一度自己のスクリーンセーバーが起動されるまで静かに過ごしてから、来たるもの
去り行く事柄のすべてをお手つきしません。
人は自分のルールで自分を小さな囲いの中でしか活動できないようにプログラミングしてしまっているところがあります。あるいは自分で負のループを選択してしまうような生き方をしてしまっているところがあります。
PCや機器が変わってもそれを扱うのは「どこ」か?
禅に関心を持って頂ければ今後の人生の幸せセンサーが発動するでしょう。

2022年11月1日 15:01
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お言葉を頂き感謝しています。心を見つめ直し穏やかな水面の様に過ごすよう努めます。
セルフチューニングを行い、お薬も必要最小になるよう、生活をしたいと思います。
ありがとうございます

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