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真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。

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有り難し有り難し 20

うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。)
恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。
悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。
最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。
念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。
この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。
ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。
ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。
(それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?)

※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。

2022年11月20日 11:02

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お念仏申して参りましょう。既に、阿弥陀さまの手のひらの中に

前回の質問も読ませてもらいました。誰かによって気持ちを揺らされ、喜んだり傷ついたり…人間関係って複雑ですよね。自分の経験では予測も出来ず、どうしたらいいのやらと悩んだら、何かに頼りたくなるものですよね。
自分で探り確かめて関わっていくのがいいのでしょうが、また振り回されて傷つきたくないって思いますものね。占いに答えを求めていきたくなるのも、自然なのかもしれません。

それでも、占いは背中を押してくれるものであっても、歩みを進めるのは自分。受け止めも、納得も、自分次第なのでしょうね。

仏法は、そんな我が身を振り返り、あきらかに見ていくところに、自分自身を知らされていきます。自分では気付けぬ部分も、阿弥陀さまの光明に照らされて、ちいさな埃も見えてくるのでしょう。

執着・煩悩は、いのち終えるまで消えないでしょう。湧き上がってくるものですから、関係の中に生きる人間社会では、コントロールも難しいですよね。それでも、煩悩の炎に燃えることを望みません。出来るだけ薄く小さくしていけたらと、私たちは阿弥陀さまの御心に触れながら、お念仏が薬の様に効いてくるのです。

阿弥陀さまは、煩悩を持った身の私たちを、そのままで頼れと仰ってくださいます。煩悩を無くすことが救いの条件ではなく、持ってでしか生きられない衆生を、そのままで救うと、今 現在進行形ではたらいてくださっています。この私のために。

共に、心を揺らしながらも、安心の拠り所として、お念仏申して参りましょう。
既に、阿弥陀さまの手のひらの中に、私たちはいるのですから。

浄土真宗の派が分かれているのは、阿弥陀さまや親鸞さまの教えが分かれているからでは有りません。長い時代の中で、まだ出遇わぬ方々へ、お念仏のみ教えを広めていくために、拠点が分かれて行った歴史もあります。
お念仏をよろこばれる方々は、皆 御同朋御同行ですね(*´꒳`*)

また、どこかでお会いできますことを。
南無阿弥陀仏

2022年11月20日 14:21
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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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質問者からのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
やはり煩悩は消せないのですね。
これからも行きつ戻りつするのでしょうね。
それでも、というよりそれだからこそ、南無阿弥陀仏をお唱えします。
煩悩の根っこはほんとうは寂しさ、心細さかもしれません。
それでも阿弥陀様に見守っていただいている。
ほんのちょっと前までは理屈っぽく考えて信心も持てなかったです。
でも、最近は信心を私の心の中にいただいたみたいな感じです。
煩悩に身を焼かれないようにしたいですが、
それでもやっぱり相手を恋い慕う気持ちは大切にはぐくんでいきたいです(*^^*)
占いも自分の気持ちを応援している言葉を優先して、自分に正直になりたいです。

hasunohaの問答を色々拝見していると、他の人に対して念仏を唱えるというのも違うのですね。
親鸞様も父母のために念仏しないと。
少しずつ学んでいきたいと思います。

「浄土真宗」問答一覧

私の宗派は、選民思想の厭世主義?

 いつもお世話になっております。動画サイトで私の好きな、 リテラシーの啓発にも取り組んでいる、少しだけ破天荒な 科学者さんのチャンネルの動画を観ていたら、宗派名こそ 出しませんでしたが、 「この世はクソだから、自分たちは神様的な存在に祈って、天国 的な場所に生まれ変われる特別な存在だと思い込んでいる、 選民思想的な陰謀論者。つまり、異世界転生を本気で信じている んですよね」 と出演者さんが言っていました。遠回しに浄土宗のことを言って いるとすぐにわかりました。ショックでしたが、頷かざるを 得ませんでした。  前後編に分かれた、陰謀論に対する注意喚起の動画の、前編の セリフです。後編では、 「誰からも認められない人が陰謀論者になるのです。認めてくれる 人を見つけましょう。極論、人間ではなく、天の神様でもいい」 とフォローしてくださっていました。  なぜ浄土宗だと分かったのかというと、実際に、浄土宗の 寺院でたくさんそのような考えの人を見、浄土宗公式の チャンネルの法話でも、 「この世は苦しいことしかない、だから阿弥陀様に祈って、 極楽浄土に行きましょう」 ということしか言っていないからです。  お寺は本山でした。そこでお説教をしている布教師と、聴聞に 来ている信者は皆、 「他の宗派はろくでなし」 「他の仏や経、真言には利益がない」 「この世は汚いから、念仏だけして、お迎えを待つ」 などという考え方でした。怠惰な人たちだなあという印象でした。  これでは、誤解されても仕方がないよな、とも思います。  しかし、hasunohaでたくさんの(浄土宗含む)お坊様と 出会ううち、 「本山の人たちの言う事は、間違った暴論では?」 と思うようになりました。  確かに、この世は思うようにならないことだらけ…「苦」 だらけだと私も思います。  しかし、「死」や「苦」を意識し、世のため人のため、 「利他」行や「布施」行に、あらゆる形で全力で励み生きるのが、 仏教ではないか。そう考えるようになりました。  だとすると、「厭離穢土、欣求浄土」という考えは?先ほどの、 「この世はクソだから…」という思想になってしまうのでしょうか?  それとも、「この世を浄土にする勢いで」努め励もう、という ことでしょうか?  浄土宗は、選民的な厭世主義なのですか?ご高見を賜りたく 存じます。

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浄土真宗における戒名について

先日祖母が他界しました。故人は浄土真宗大谷派です。曽祖母の遠縁にこれまでお世話になっていましたが、住職の健康問題があり今回の葬儀も対応いただくことができず先行きがわからないこと、体調不良の以前からも車で40分ほどの距離の法要をお断りされていたこと、葬儀や法要の際に酩酊や二日酔いのような状態で途中で退席することがあり、今後お付き合いできるか不安な点が多々あります。 母(亡くなった祖母の娘)はこれまでのおてつぎのお寺に関係から、法名をお寺にお願いすることを躊躇っています。母は不安を要素があるお寺にお願いするなら、祖母の人柄を知った上でで「釋尼幸楽」としたいそうですが、またこの法名が問題ないのか心配だそうです。そもそも戒名についての前提知識がないのですが、お寺から「頂く」べきですか?そもそも故人の遺族が(宗派のルールについて調べた上で)法名をつけることはできるのでしょうか? また、これまでお世話になっていたお寺(曽祖母の関係者)から、曾祖父のお寺に変えたい、と母が希望しています。地区名(都道府県、市、地区名)はわかっているのですが、存命のものがおらずお寺の名前がわかりません。どうにかして見つけることは可能なのでしょうか?可能性のあるお寺に聞いてみることは可能なのでしょうか?

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浄土真宗に対するカルチャーショック

先日質問をさせて頂きました。 今回はお盆にあった事と、つい最近あった事についての質問です。 私は曹洞宗です。今年亡くなった祖母は禅宗から浄土真宗になりました。(祖父が浄土真宗だったからです) 祖母の新盆があり、お寺にお参りしてきました。 納骨堂には祖母の遺影を置いてきました。 広場でお経をあげられた後、お坊さんから精霊馬を置いている人は居ないかと聞かれ、皆さん手をあげず、私は自宅では飾って居ますが、手をあげませんでした。 その際、皆さんよく勉強されている、浄土真宗では飾らない、また、故人はお盆には帰ってこない、何故ならもう成仏しているから。と喜々として語られていました。 ちょっとショックでした。 確かに浄土真宗教義ではそうなのですが 言い方を変えると二度亡くなった感じに感じました。 曹洞宗の私は成仏した成仏してないに関わらず、お盆とはそう言う物だと思って居たからです。本来の教義からすると離れるのかもしれませんが、こちらから成仏した成仏してないの確認は出来ませんので、一律に帰ってくるものだと思うようにしていました。 正直今後宗派が違う祖母のお寺のお盆参りには行かない方が良いのかとすら悩みました。 先日祖母の月命日があり、お寺にてお経をあげてもらったそうです。こちらからお願いして頂いたそうです。祖母の納骨堂の前でお経を貰ったそうです。 既に成仏していると言う考えなのであれば、納骨堂の前でするのではなく、本堂の阿弥陀如来の仏像の前でするのではないのか?と思いました。 浄土真宗では納骨堂に意味があるのでしょうか?そこに居ないで阿弥陀如来に手を合わせるのであれば意味が無いのかと思ってしまいます。 そしてそのお寺では死後の菩提寺が無い人に対して浄土真宗になればうちのお寺で対応すると言うような手法を使われているそうなのですが、こういう事は良くあることなのでしょうか? あまり祖父母が浄土真宗としてのお参りなどをこれまでしてきていなかった事と、子供の頃から曹洞宗のお盆で慣れて居た事もあり、面食らって居ます。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ