真宗の日ごろのお勤めをはじめたいです。
うまくいかない恋愛を前に常に間違える自分は相手を困らせ、自分も傷つくの繰り返しで、自分で判断するよりもまだいくらかよいか…と占いにはまって抜け出せなくおりました。(まだ抜けきってませんが。。)
恋愛に対して、よろしくないとか凶とかばかり出ていたのでしたが、それが念仏を唱えさせていただく契機になるのだから占いの上での人間的な欲望ベースの吉凶もあてにならないなと思えてまいりました。
悲しみ、不安、妬み、怒り、今はそうした感情が湧いてきたときに念仏を唱えさせていただきます。それから何もない時でもことあるごとに。
最近は、私につらく当たる上司も、報われず悲しい顔をしているあの人も、妬ましいと思ってしまった幸福そうなカップルも、馬鹿にして軽蔑してしまった人も皆、等しくともに極楽浄土へ向かい仏になるのだと思うとその方々の身の上にも念仏を唱えさせていただいている自分がおりました。
念仏をいただくとも阿弥陀様がもらすことなく私たちをお救い下さるというのになぜ、さらに勤行を重ねていらっしゃる方々がいるのかなんとなくわかった気がします。
この娑婆でこの私が今一歩、執着を離れ心穏やかに、(併せて周りの人も穏やかに)いられるためにもう一歩踏み込んでみたいと思っていますがまずなにをはじめたらよいでしょうか。
ただ、その行為自体にすがろうとか執着してしまうということは避けねばとは思います。
ちなみに、私の家自体は本家から離れ菩提寺もないのですが父方が大谷派、母方が本願寺派です。
(それにしても仏教は面白いですね。みんな根っこは同じでもお釈迦様の教えが多様に分かれていって、親鸞上人の教えもさらに多様に分かれていって。人の数だけ救われ方がある、のでしょうか?)
※すこしとりとめのない感じになってしまいすみません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
お念仏申して参りましょう。既に、阿弥陀さまの手のひらの中に
前回の質問も読ませてもらいました。誰かによって気持ちを揺らされ、喜んだり傷ついたり…人間関係って複雑ですよね。自分の経験では予測も出来ず、どうしたらいいのやらと悩んだら、何かに頼りたくなるものですよね。
自分で探り確かめて関わっていくのがいいのでしょうが、また振り回されて傷つきたくないって思いますものね。占いに答えを求めていきたくなるのも、自然なのかもしれません。
それでも、占いは背中を押してくれるものであっても、歩みを進めるのは自分。受け止めも、納得も、自分次第なのでしょうね。
仏法は、そんな我が身を振り返り、あきらかに見ていくところに、自分自身を知らされていきます。自分では気付けぬ部分も、阿弥陀さまの光明に照らされて、ちいさな埃も見えてくるのでしょう。
執着・煩悩は、いのち終えるまで消えないでしょう。湧き上がってくるものですから、関係の中に生きる人間社会では、コントロールも難しいですよね。それでも、煩悩の炎に燃えることを望みません。出来るだけ薄く小さくしていけたらと、私たちは阿弥陀さまの御心に触れながら、お念仏が薬の様に効いてくるのです。
阿弥陀さまは、煩悩を持った身の私たちを、そのままで頼れと仰ってくださいます。煩悩を無くすことが救いの条件ではなく、持ってでしか生きられない衆生を、そのままで救うと、今 現在進行形ではたらいてくださっています。この私のために。
共に、心を揺らしながらも、安心の拠り所として、お念仏申して参りましょう。
既に、阿弥陀さまの手のひらの中に、私たちはいるのですから。
浄土真宗の派が分かれているのは、阿弥陀さまや親鸞さまの教えが分かれているからでは有りません。長い時代の中で、まだ出遇わぬ方々へ、お念仏のみ教えを広めていくために、拠点が分かれて行った歴史もあります。
お念仏をよろこばれる方々は、皆 御同朋御同行ですね(*´꒳`*)
また、どこかでお会いできますことを。
南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
早速のご回答ありがとうございました。
やはり煩悩は消せないのですね。
これからも行きつ戻りつするのでしょうね。
それでも、というよりそれだからこそ、南無阿弥陀仏をお唱えします。
煩悩の根っこはほんとうは寂しさ、心細さかもしれません。
それでも阿弥陀様に見守っていただいている。
ほんのちょっと前までは理屈っぽく考えて信心も持てなかったです。
でも、最近は信心を私の心の中にいただいたみたいな感じです。
煩悩に身を焼かれないようにしたいですが、
それでもやっぱり相手を恋い慕う気持ちは大切にはぐくんでいきたいです(*^^*)
占いも自分の気持ちを応援している言葉を優先して、自分に正直になりたいです。
hasunohaの問答を色々拝見していると、他の人に対して念仏を唱えるというのも違うのですね。
親鸞様も父母のために念仏しないと。
少しずつ学んでいきたいと思います。