自分の中の怒り
日々の生活の中で自分はいつも平等に扱ってもらっていない、低く見られている、他人に注意を受ける時は自分の思い、認識といつも正反対のことを言われる。どうして?なぜ?そういう思いが強い
子供の頃から親の意思を押し付けられ、成人後も平気で小さな子供のように注意を受ける。実家にいた時はいつも私が悪い、謝る存在。
子供の頃から自分は他人に下に思われていると強く思っていた。実際弟が食事のメニューや成績がよい、スポーツができるなど褒められる存在。
私は親の前、親戚の前でも怒られる、辱められる存在。なぜ?どうして?
いま仕事でも自分は自分なりに気付いてやっていること、他人より頑張ってやっていることも他人には評価されない。
他人の評価に縛られているかもしれないが結局、自分がどんなに頑張っていると言っても評価するのは他人です。
自分の認識と他人の評価にものすごいギャップがある。自分が可哀想になり虚しくなる。
自分が心を砕いていることについて、まるで自分がなんの配慮をしていないように他人の評価を受けるなど、他人や社会に対して漠然とした怒りが自分にはあります。
他人や上司と話しあってもそのときは自分の思いを話す。やはり相手はわかっていなくて話をしてわかってもらい、その時は満足、納得できるのですが、また自分が理解されてない、理不尽な扱い、出来事に直面し、怒り、諦めが湧いてくる負のループの中にあります。
私はどう考えたらいいのでしょうか。
私がおかしいのでしょうか。
自分が嫌になり、生きること、考えることが嫌になります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分のなかに自分を評価する価値観を作り上げる
うしくん さん
こんにちは
拝読させていただきました。
自分の思いがなかなか伝わらず、お辛いですね。
>私がおかしいのでしょうか。
先ず、うしくんさんはおかしくないと思います。
>考えることが嫌になります。
ただ、考えることはやめないでください。もっと情報量を増やし考えることが必要かもしれません。
というのも少ない情報量で考えても、結局は、その情報量のなかだけで思考をめぐらせることになります。
私は、読書がひとつの救いです。ほどほどの読書量だと思いますが、時間があれば、書物からさまざまな人の考えや生き様を参考に、自分の価値観をてらし、多様性を保っている気がします。
うしくんさんの場合、読書なのか他の音楽やアートなど、他のものかもしれません。
とにかく、世の中には多様な考え価値観があります。むしろ、自分とは違う価値観の方が多い気もします。
でも間違っているわけではなく、周りにいないだけの可能性もあります。
自分に合う価値観の人もどこかにはいますし、手っ取り早いのはできるだけ自分のなかに作り上げるということではないでしょうか。
仏教を学ぶこともその価値観を自分のなかに作り上げる一つの方法なのかもしれません。
応援しています。
一つの参考となれば幸いです。
質問者からのお礼
慧徳様
回答ありがとうございます。
とてもうれしいです。
この場で自分の気持ち、悩みを吐き出して進んでいきます。
結局、毎回悩みは同じですがこの場に声を出すことで勇気をもらっています。
本当にありがとうございます