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承認欲求について

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はじめまして。

私は絵を描くのが好きで、よく好きなアイドルの絵を描いてsnsに投稿しています。

ですが、投稿しても周りからの反応は少なく、いつも虚しい気持ちになります。フォロワーの多い友達が私の絵を拡散してくれますが、それでもいいねはあまりもらえず、むしろ申し訳なくなります。
そして最終的に、自分はアイドルが好きだから絵を描いているのではなく、ただ周りの人から褒められたいからアイドルを利用して絵を描いているのではないかと考えてしまい自己嫌悪に辿り着きます。

どうしたら自分なりに承認欲求を満たし、もっと楽に絵が描けるようになれるかを知りたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

承認欲求よりも大事なこと

とても優れた高い洞察能力と状況判断能力を文章から感じます。
私なんぞは(´-`*)だらだらと長い文章になってしまいますが、短い文章で端的かつ的確に表現されておられます。文章能力、表現能力もとても高いように感じます。それだけの力があるのですから、イラスト一本でなくてよいでしょう。喩えは悪いですが、さほど万人受けすることのない商品であっても上手な付加価値をつけてバカ売れするような…あのマツコ・デラックス的❝ひと加工❞があればあなたは承認欲求などどうでもいいわと思えるぐらいにズバズバ自分らしく自分のやりたいことをやれるようになれる。
そもそも承認欲求承認欲求承認欲求いわれるようになったのもここ最近。
世の中の多くの場合は違うことで承認されようと思っているから大半の方がスベってコケて🐔おられるのではないかと思います。
承認欲求は大事なのですが、もっと大事なのは「自分が自分らしく、自分にしかない自分独自の手法でやりながら、そこに心地よさ、快適さ、信念、充足感を得ること「です。
(´-`*)コレダ…!
たとえばあなたの好きな料理は何ですか?好きなパンはなんですか?すきなおやつは何ですか?すきなおかずは何ですか?
その好きなものの中でも絶対にブレないあの味、あのクオリティ、あのグレード、あの間違いないものがあるはず。
それは誰から教わったのでもない。
実はそれが承認欲求の正体なのです!
喩えは悪いですが、あなたがさほど好きでもないⓟPOPカルチャーの分野で群がる人が多いからといって迎合して世間に媚びて受けるようなものをアウトプットしていっても、それはあなたの本心に逆らって嘘をついているような行為となるのです。
私は蕎麦を食することは好きですが、自分でうってみろといわれてもうまくできません💦失敗作の私の激マズ蕎麦を無理に「いいね!」と言ってもらうより、この店のお蕎麦超美味しい!とSNSで拡散してイイお蕎麦屋さんが繁盛し、悪魔に魂売って堕落したⓟ国産の蕎麦粉をつかっほとんど小麦粉の自称蕎麦を売り歩く販売ヤーが駆逐された方が蕎麦業界の為になるし、ちゃんと王道を追求してやっている人が笑顔になれるじゃないですか。それは承認されることの歓びではないにしても、正しいことをやって自分が自分で自分に納得がいくガツンと来る生き方です。そういう道も活路としてぜひ見出してください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
自分一人で考えていても堂々巡りするばかりで気持ちが楽になるような答えが出なかったのでとても参考になります。たしかに絵を描く手法などいつも同じで、いつもの方法で絵を描くことに囚われていたのかもしれません。画材を変えたり、もしくは自分が描く側ではなく見る側、感想を送る側になってみようと思います。
改めてありがとうございました。

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