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世界を救いたいという夢

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有り難し有り難し 17

精神科で闘病しており、生活保護をいただく予定です。こんな弱者のくせに、私には世界の救済と全ての霊魂の永遠の幸福という夢があります。自分が救われて永遠に幸福になることは大前提とし、それだけでよしとせずに全ての魂が幸せな世界です。大乗仏教的と言えるなら嬉しく、ゆえに死後は世界救済のお手伝いのために弥勒菩薩様やイエス様などの救世主の部下になりたいとさえ思います。

しかし地上での私は霊能力も超能力も無いので、ボランティアを趣味にしています。物理的な世界から見ればちっぽけな人間がボランティアをして生きたところで救われる人間の数などたかが知れており全ての人を救うなど到底無理なのですが、仏の世界から見れば私の生き方は世界の救済の役に立てるのだろうか、「世界の救済と自分を含めた全ての霊魂の永遠の幸福、そのためにその身を捧げる」という私の生き方を貫いた先に、本当に世界が救われみんなが永遠に幸福になれる未来はやってくるのだろうかと疑問に思い、登録させていただきました。

ご回答よろしくお願いいたします。

2022年12月8日 2:59

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教における「救い」

聖火さま

大乗仏教の菩提心は、まさに皆の幸せ、皆の安楽、皆の解脱を目指すための悟りへと向けた志となります。

仏教には、「自利利他」という言葉がございます。

大乗仏教の六波羅蜜においては、布施・持戒が「利他」行、忍辱・精進が「自利」行、禅定・智慧が「解脱」行と分類されます。

利他行は、功徳行、あるいは福徳行と申しまして、悟りへと至るために必要な資糧となります。そして、それがやがては仏陀・如来となった際に、衆生を救済する基(色身の根拠)となるものであります。

煩悩障と所知障がある限り、私たち凡夫においては、完全な利他行は当然にできませんが、その行いで実際に助かる者、救われる者、安心する者がいるならば、それは功徳・福徳の資糧となります。

まさに、そのような行いを積まれておられることは有り難く尊いことでございます。

そして、仏教の「救い」とは、各自におけるこの輪廻からの解脱ということになります。

その解脱へと向けて、各自が利他行・自利行と共に、禅定・智慧に取り組むことが大切なことになります。

そして、その「救い」は如来や仏陀から与えられるものではなく、「自分」で成し遂げていかなければならないものとなります。

それぞれにおいて、自分を救うのは、最終的には自分自身(の行い・業)なのであります。

仏陀・如来は、あくまでもそのための道筋を私たちにお示し下さる、お手伝い下さる存在となります。

そのように衆生を導いて下さる仏陀・如来のような存在となるためには、六波羅蜜をバランスよくしっかりと修めることが求められるところとなります。

現在、なさっておられるボランティアと共に、是非、自利行、解脱行にも取り組んで頂けました有り難くに存じます。

普回向
「願わくば この功徳をもって あまねく一切に及ぼし 我らと衆生と皆共に 仏道を成ぜんことを」

合掌

2022年12月8日 13:12
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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

世界の救済、人類の救済は人類みんなの義務です。

そもそも人を「救う」ということはどういうことか。
仏教における救いとは、その人をして正覚・成仏・悟りに向かわしめることです。
その人自身の本来の自己(仏)を自覚せしめることです。
それが仏心を自覚、成就せしむるということです。開示悟入。
人は誰でも救い・救われた状態がある。そこを自覚させることが救いです。
「どうすれば人は救われるか、安らかになれるのか。」その内容を的確に説き示すのです。
だから、あなたにもそれはできるのです。
むしろ、あなたはそれをしなければいけません。誰もがそれをしなければいけない。子供にでもわかるように言えばアンパンマンと同じなのです。
毎週、アンパンマンに助けていただいて「アンパンマン、また助けてねー。」ではアンパンマン一人ではとても手に負えない。顔も施し過ぎて首無しマンになってしまい、子供も発狂して逃げ出してしまう。  ゚Д゚ キャー( ;∀;)
世界に不足しているもの。それは愛、慈悲、善意、まともな人間性、正しい道理。正しいおしえ。総じて心の善玉菌。
他人任せでは世界はバイキンマン=人間の悪意、ネガティブ精神、自己中心的な人たちが増殖するばかりです。せめて一菩薩として一隅を照らす。食パンマン、メロンパンマン、ジャムおじさんになるぞ!との心意気、大菩提心がなければ世界を救う具体的な活動にはなりません。それをするのがお寺の活動です。出家や在家を問わず万人が「善玉菌マン」として世の善玉菌の活性化活動家になることは義務なのです。
お釈迦様は別に絵にかいたようなアクションヒーローのように世界を救ったのではないのです。
人間本来の本来の様相・本来性を知らしめたのです。
「あなたはこうなっているよ」ということを説いて人を救ったのです。
【大聖、法輪を転じての法相を顕示す。苦悩の衆生を度して大歓喜を得せしめたまう。(法華経)】
「大聖者釈尊は自ら世の救いの作用体である菩提心の作用体そのものとなって世の中にこの世の本来の救われている清浄なる姿を説き示された。これによって悩み苦しむ人々に大いなる歓喜心を会得せしめた。」
仏法が広まることは救われる人々がどんどん増えるということです。
こんな素晴らしい活動があるのにやろうとしないか。
やらないのはなぜか?人は他のことを優先しているからなのです。
人が必要としている本当のことは何か?その探求の中に答えはあります。

2022年12月11日 15:25
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

この道の先に何かがあると信じます。ありがとうございます

互いを思いやるのがもはや動物本能であり、全てが幸福な世界を到来させたいです

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