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極楽へと行く姿

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先日祖母が亡くなりました。
三親等内で初めて看取った家族でした。小さい頃から毎日家に来てお風呂に入れてくれたり、公園に散歩に連れて行ってくれたり、アルバムを見るのが好きな私に何度も1枚1枚説明してくれたり、お札でお年玉をもらうと親に回収されるから小銭でほしいと小さい頃に頼んだら成人しても小銭で1万円分くれたり、たくさん思い出があって私も大好きな人でした。
急に亡くなってしまいましたが、お見舞いに行くことは出来てお話もできて気持ちの整理が着いた状態で見送れたと思います。
でも今もふと、祖母が極楽へ行ったらどのような姿で過ごすのか考えてしまいます。亡くなった時の姿でいるのでしょうか?そうであれば私が年老いて亡くなったら私だと気づいて貰えないかもしれません。それとも自分がいたいと思う姿でいるのでしょうか?そうであればきっと私が知ってるよりも若い頃の姿になる祖母に私が気づけないかもしれません。
そのようなことを考えると、私が今死ねれば祖母に確実に気づいてもらえるのにな、とも思ってしまいます。
どのように解釈すればいいのかお教え頂きたいです。

2022年12月9日 17:29

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死、中有、再生のプロセス

はむたさま

死、中有、再生のプロセスには、仏教でも諸説あるところですが、最も詳しく知り得る書としては、「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」(ヤンチェン・ガロ大師)がございます。

日本書では、ゲルク派版「チベット死者の書」(平岡宏一先生)がございます。

人(衆生)は、死後、古い肉体を出た輪廻を司る微細な意識が、それぞれの業、因縁の力に依って、次の生まれ先へと向かい、次の生まれ先の世界における物質、形態に応じた存在として再生することになります。もちろん、その輪廻を司る微細な意識も形状をとることがありますが、非常に不安定なもので、そう長く保つものではありません。意成身、意生身と申します。

次の世界、娑婆にしても、極楽にしても、別の世界にしても、まず、死後は、この意成身、意生身にて向かうことになります。

この意成身、意生身は私たちでは捉えることのできないものですが、たまにカメラ録画等で捉えられることがあります。古い身体から抜けていく影として。(怪しい心霊写真・動画とかではなくて)。これはよく魂の重さとして21グラムほどの質量のものとも言われています。

いずれにしても、死と共に、記憶は全て無くなってしまうものとなります。

もし、記憶が無くならないならば、私たちそれぞれはこれまでにも無数の生まれ変わりを繰り返しているので、必ず、前世、前前世、その前とずっと記憶できているはずですが、思い出せないことからもこのことは分かるかと存じます。

しかし、業における因縁における中で縁のあったことは存続していくことになります。

ですから、来世、あるいは来来世で、同じように生まれ変わりの中で、縁がある可能性は十分にあり得ます。また、その際には、過去世における縁により、今世と同じように縁を結び、紡ぐこともあるかとは存じます。最近の言葉では、ソウルメイト的なという表現になるでしょうか。

縁を紡ぐということが目的ではありませんが、亡くなられた方が、より善い行き先、より善い次の転生先での生であり、仏道が歩めていけるようにと応援するために行うのが追善供養となります。

追善供養を通じた仏縁により、また亡くなられた方との縁も当然にあり得るものとなります。

しっかりと追善供養をなさって頂ければ有り難くに存じます。

合掌

2022年12月10日 8:22
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Eishun Kawaguchi
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